物語のメモ

物語・植物・心理学・文化人類学・IT等について/月1回更新目標

発酵と狩猟_支配から抜ける論理

これから、発酵と狩猟に共通する世界観について考察します。現代の行き詰まりを打破する光明になるんじゃないかな、というお話。
------------------------------------------------
好きな発酵食品はあるだろうか。
例えば休憩中や休日に、コーヒーや紅茶を飲んだりするだろうか。どちらも発酵食品だ。
自分は鯖の味噌煮が好きで、白米のおかずによく食べている。それにビールを飲んだり、チーズをよく食べる。どれも発酵食品だ。
世の中には数えきれないほどの発酵食品があって、歴史と文化が反映されている。
そのため、各地の独自の発酵食品を食べ飲みすることで「お、わかってるじゃん」と仲間とみなされる。
例えば外国に行って、酒を飲むことで現地の人に受けいれられる。逆に、来日した外国人が「納豆が好き」だと言うと、なかなか通だなと思う。
発酵は世界に根付いていて、「人が発酵を発明したのではない、発酵が人を作ったのだ」という言葉もあるくらいだ。
発酵食品は、栄養や調理の観点ですぐれていると同時に、文化の証でもある。
ワインや日本酒、キムチなど、それを作ったり、飲食することが、その文化に属する証になる。
しかし、さらに重要なのは、発酵という世界(ネットワーク)に人が関わることで立ち上る世界観だ。

それは狩猟にも通底し、そして現代の考え方を見直す礎となる。

その考え方をこれから見ていこう。
結論から言うと、ポイントは下記だ。
・自然の中での人間の立場を、食べ物(恩恵)を受ける側として劣位に位置づける
・その立場で世界を捉えることで、支配/被支配の論理を回避する
このような世界観だ。どういうことか、ゆっくり見ていこう。

支配から抜ける論理

発酵の世界
まずは発酵にたずさわる生き方を見てみよう。
鳥取県で営業している、天然酵母のパン屋タルマーリーがある。そのパン屋は「菌」の声を聞くという表現でパン作りについて語っている。(田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」)
現代では、パン作りは企業に工業化されてしまったため想像しにくいが、天然酵母のパン作りは、とにかく大変らしい。気候や時間など、日々変化する自然に耳を傾け、季節の変わり目などにあわせ、そのつど試行錯誤する。そうしないと良いパンができないそうだ。
天然酵母は人の都合でコントロールできない。パンをつくることはあくまで「彼ら(天然酵母)と生きることを選ぶことにほかならない」とパン屋の人は言っている。それはつまり、自然と人の営みの結節点として生きることでもある。
そしてその立場は、世界をどう捉えるかということにまで繋がっていく。
パン屋のいいところは、生産者とお客さんの両方向につながりをもち、生産者とお客さんをつなぐ「ハブ(結節点)」になれること。 
天然酵母は、人の都合でコントロールできるわけではない。それゆえ、パン職人は、小麦と水、そして酵母をつなぐ結節点として、パン作りに関わっている。そのため、世界観として「自らの都合を押し付けるわけではなく、恩恵を受けながら共に生きる」世界観が立ち上がってくる。そして、自然に対するそのような世界観は、自らの生きる人間社会の関係にも適応される。そしてそれが、資本主義のような「支配/被支配」から抜け出すよすがとなっている。
次に、狩猟社会を見ていこう。
狩猟の世界
イヌイットなどの狩猟採集社会では、取った獲物は分かち合う文化がある。例えば、狩りに使う矢が必ず他人から提供されなければならないといったルールで誰の成果かを薄めたり、獲物を仲間と分かち合うというルールにより、富の分配を促している。文化というか基本原則で、そうしないと仲間からハブられたり非難される。(ちなみに、富ある者に対して、当然のように分配を求めるため、獲物であれ財産であれ、すぐになくなる)
分かち合う文化の根本にあるのが、次のような考え方だ。少し複雑になるが見ていこう。
まず、イヌイットは、狩猟に際して特異な観念を持っている。それは、イヌイットが獲物を分かち合って食べることで動物の「魂」が新たな体に再生するという考えだ。
動物は「魂」 (taginig) をもち、身体が滅んでもその魂が滅びることはないとされる。ただし、この動物の魂 は、イヌイトがその身体を分かち合って食べ尽くさねば、新たな身体に再生することはできない。(宇宙をかき乱す世界の肥やし(現代思想 45(22):2017.12))
そのため、イヌイットと動物は「分かち合い」という観念のもと、もちつもたれつの関係を築いている。
動物の魂は新たな身体に再生するために、自らの身体を食べ物としてイヌイトに与えることになる。このことは、イヌイト からみれば、生存のための資源が与えられることになるので、イヌ イトは動物から助けられることになる。つまり、イヌイトが実現すべき世界においては、動物はイヌイトに自らの身体を食べ物として 与えることでイヌイトの生存を助け、イヌイトはその食べ物を自分たちの間で分かち合うことで動物が新たな身体に再生するのを助ける、という互恵的な関係が目指されることになる。
ポイントは、あくまでイヌイットは、動物に対して劣位の、弱者の側ということだ。なぜなら「食べ物」を与えられる側だからだ。
こうした結果、イヌイトは動物に 対して常に「食べ物の受け手」という劣位にある者として、動物か ら与えられた食べ物を自分たちの間で常に分かち合わねばならない ことになり、イヌイトの間での分かち合いが規範化される。イヌイトの間で食べ物が分かち合われねば、動物の魂は再生することがで きなくなるため、動物はイヌイトに自らを食べ物として与えなくなってしまうからである。このとき重要なのは、イヌイトに分かち合いの規範を課すのは動物であって、イヌイトではないように工夫されていることである。そのため、イヌイトの間では、誰が誰に対しても命令することなく、誰もが同じ規範に従って食べ物を分かち合う協調の関係が成立する。
つまり、イヌイットの狩猟の世界では、人は規範を与えられる側であり、道徳は獲物から教わるのだ。
こうした狩猟の世界観と、前述のパン屋(発酵)の世界観の共通点は「人が何かを完全に支配することはできず、分かち合うことしかできない」という認識だ。
その認識のため、支配や独占にあまり意味がなくなり、協働したり共同するメリットの方が大きくなる。
世界観の再生産
そして重要なのは、このような認識の営みに入ることで、その世界観が再生産するということだ。狩猟でも発酵でも、世界観は一人で築いたり維持できない。仲間や同時代の人、そして子孫が受け継がねば世界観にはならない。
ではどのようなプロセスで世界観が再生産されるのだろうか。少し長いが次の解説を見てみよう。

こうしてイヌイトの間では、平等な食べ物の分かち合いの中で、相手を裏切って食べ物を横取りしないことを相互に期待し合い、食べるという同じ行為を協調して行うという相互の意志に依存し合う信頼の関係が生じる。結果として、イヌイトは動物に対して「食べ物の受け手」として常に劣位な立場に立ち、食べ物の分かち合いの規範を課す命令を動物に託してしまうことで、自分たちの間から「支配/従属」の関係を厄介払いし、自分たちの間に平等な立場で協調し合う信頼の関係を実現することになる。 

(略)

こうしてイヌイトの間で協働が促され、知識と技術が共有されるようになると、その結果、イヌイトが新たな動物の個体との間に「食べ物の受け手にして分かち合いの命令の受諾者/食べ物の与え手にして分かち合いの命令者」という関係に再び入る確率が上がる。そして、この関係が実際に実現されると、すべてが生業の出発点に戻り、もう一度、同じ循環が繰り返される。

こうして動物の魂の新たな身体への再生は、循環する生業の過程の中でイヌイトと動物の関係が再生産されるというかたちで実現される。

「恩恵を受け、分かち合うことしかできない」という世界観は、こうして循環の中で再生産される。この世界観で暮らすことで、自身だけでなく、自身が招き入れる人もまた、そうなっていくのだ。自身もそうして招き入れられたから、それを次につなぐのだ。
現代の例
世界観の再生産として、現代的な例に二つ触れよう。
一つは漫画「鬼滅の刃」だ。
この漫画は、日本の大正時代を舞台に、少年が鬼となった妹を人間に戻すために、鬼たちと戦う物語だ。自分も好きで繰り返し読んでいる。
作中では、鬼に立ち向かう剣士がバタバタ死んでいく。しかしその中で、主人公は倒れたものの意思を継ぎ、鬼に立ち向かっていく。
作中では、「恩恵を受けたものが分かち合う」という立場が繰り返し語られる。いくつかセリフを見てみよう。
「何をするにも初めは皆赤ん坊だ 周りから手助けされて覚えていくものだ」
 「他人と背比べをしてるんじゃない 戦う相手はいつも自分自身だ 重要なのは昨日の自分より強くなることだ」
 「それを十年二十年と続けていければ立派なものさ そして今度はお前が人を手助けしてやるんだ」
 
 「胸を張って生きろ。己の弱さや不甲斐なさにどれだけ打ちのめされようと、心を燃やせ、歯を喰いしばって前を向け。
 (略))
 俺がここで死ぬことは気にするな。柱ならば後輩の盾となるのは当然だ。柱ならば誰であっても同じことをする。若い芽は摘ませない」
 「もっともっと成長しろ。そして…今度は君たちが鬼殺隊を支える柱となるのだ。俺は信じる。君たちを信じる」
 
 「弱き人を助けることは強く生まれた者の責務です。責任を持って果たさなければならない使命なのです。」

物語では、天災のように強大な鬼と戦い、世界観をつなぐ中で、最終的に鬼に勝利する。しかし、それは単に相手を滅ぼすという意味の勝利ではなく、「支配」と「分かち合い」という世界観自体の戦いだ。そして、勝利するのは後者の世界観なのだ。

もう一つ、身近な例を考えよう。現実の話だ。
現代では人口減少や環境問題により、こうした世界観が強制的に必要になっていっているフシがある。
卑近な例として、私が勤めている会社では、仕事は山積みで課題もたくさんあるが、人手不足が深刻だ。バンバン人が辞めていく割に、新しい人が入って来ない。あるいは入ってもすぐ辞める。たぶん多くの会社がそうだと思う。
こうした状況では、その中で、せっかく入ってくれた奇特な人に、辞めてもらわずに戦力になってもらわないといけない。淘汰するのではなく、知識や経験を分け合い、強くなってもらう方が良いのだ。
人材を使い捨てていた前世代の価値観では、確実に行き詰まってきている。現代では、自分が受けた恩恵や学んだことを分かち合う方が得になってきているのだ。
こうして「恩恵を受けたものが分かち合う」という世界観を再生産していくこと。それ自体に価値があるし、可能性がある。そもそも、強者でいることが難しい環境では、劣位の立場のものの連帯でしか、生きる術がないのだ。

かけがえのなさと代替可能性

さて、ここまでは理念的な話だったが、今度は別の側面から見ていこう。人が生きる際の二重性についてだ。
話は再びパン屋に戻る。
パン屋は、自然(天然酵母)と人の営みの結節点だった。そして同時に、生産者とお客さんの両方向につながりをもつ「ハブ(結節点)」でもある、という話だった。
発酵や狩猟には、結節点や交差点としての意義がもう一つある。
それは「かけがえのなさ」と「代替性」の交差点としての意義だ。
どういうことだろうか。ゆっくり見てみよう。
まず基本的に、人間は社会的動物だ。社会の中で分業して働き、結婚して子育てをする。社会の中で生きるとは、代替可能な役割を生きるということだ。仕事であれボランティアであれ男女関係であれ、何かの役割を果たすことで、認められ、満足する。
その役割は基本的に代替可能だ。現代社会では、資本主義の原理が世の中を席巻して、何もかも金で換算されがちだ。それはつまり、社会の中での代替可能性が極大化していると言える。しかしそもそも、人間社会の基礎として「代替可能な役割を果たす」というのは基本だ。人間関係の中で、役割を求められたり役目を果たす。その時に、困難や苦悩、喜びがある。それが生きがいとなることもある。
しかしやはり、代替可能な役割を果たすばかりでは、心が乾いてくる。なんのために自分がそれをしているのか。別に自分じゃなくてもいいし、別の誰かでもいい。
そうした代替可能な役割を果たすことと、かけがえのなさが交差するところが、生きるということだ。人は役割を果たすこと(代替性を満たすこと)と、かけがえのなさの両方を感じられた時に、よりよく生きていると満足するのだろう。
代替性とかけがえのなさが交差するところ、それがパンを作って売ることであり、狩猟で獲物を捕らえることだ。
どちらも、コントロールすることが難しい相手と対峙し、「今ここ」で自分が向き合う。その時には間違いなくかけがえのなさがある。
パン屋であれば、気候や温度で素材への向き合い方が変わる。狩猟であればいつ牙を剥くとも知れない野生の動物を目の前に、技をつくして狩りをする。その瞬間は、再現できないかけがえのない時間だ。
そして同時に、パンを売ったり獲物を分配することで、社会の中で役割を果たしている。パン屋はお金を稼ぎ、狩猟では社会の一員として認められる。そこでは、かけがえのなさと代替性の論理が交差する。
前述のパン屋の本の著者は、「小商」という、生産手段を自分で持って商売をすること勧めている。作中では、小商を進める理由を資本論の文脈で語っているが、その背後には「かけがえのなさ」と「代替性」が交差する満足感もあると思う。
また、そもそも発酵や狩猟などでは、物事を最短ルートで行うことが難しい。「恩恵を受け、分かち合うことしかできない」というのは、基本的に弱者の世界観だ。弱者は自然に対し、原理原則にしたがって支配するのではなく、対峙することしかできない。支配の論理をそもそも行使できないのだ。支配の論理を行使できないが故に、代替性の論理で占めることもない。基本的に支配というのは原理原則的な、対象が何であっても通用するという代替可能な話だ。しかし発酵や狩猟では、そういうわけにはいかないのだ。
そうであるがゆえに、弱者の世界観では、代替性とかけがえのなさが交差する。
光明としての弱者の論理
今後、この世界観は、行き詰まった現代の光明となると思う。
現代は、あらゆるものが弱者に近づいている。多様性が重視されている昨今、つきつめて考えると、誰もが何らかの観点ではマイノリティであり、ノーマルではなくなる。
また同時に、天災やシステムの暴走など、人が抗えないことが多くなっている。台風であれ、資本主義であれ、何かのシステムが猛威を振るう世界では、人が支配的に振るまえることは少なく、巻き込まれる側として対峙することが多くなる。
そういった世界では、誰もが基本的に弱者だ。マイノリティしかいない世界、弱者しかいない世界で、今後世界がどう維持されていくのか、そして人の希望がどこにあるのか。
発酵と狩猟の世界観(「恩恵を受け、分かち合うことしかできない」という世界観)は、今後を考える上で一助になると思う。

おまけ、補論

ここからは少しおまけ。

現代社会における困難
実際のところ、「恩恵を受け、分かち合うことしかできない」世界観や、それを通じて支配から抜ける論理を、現代社会にどう広げるか、実現するのがとても大変だと思う。現代社会と、狩猟・発酵社会では、前提条件があまりに異なっている。例えば、イヌイットは、自身が弱者であるという価値観を徹底した結果、家畜を飼うことができない。その理由を見てみよう。

イヌイトは動物に対して「食べものの受け手」として常に劣位な立場に立ち、イヌイトの間での食べものの分かち合いの規範を課す命令を動物に託してしまうことで,自分たちの間から「支配/従属」の関係を厄介払いし,自分たちの間に対等な立場で協調し合う信頼の関係を実現することになる。

しかし,この代償として,イヌイトは動物に対して常に劣位の立場に立たねばならないため,イヌイトには動物を馴化する道が閉ざされてしまう。もしイヌイトが動物を馴化してしまえば、食べものの分かち合いの規範をイヌイトに課しているのは動物ではなく、その動物を馴化したイヌイトになってしまう。これではイヌイトがイヌイトに命令していることになり、厄介払いしたはずの「支配/従属」の関係がイヌイトの間に舞い戻ってきてしまう。イヌイトの間で対等な信頼と協調の関係が成立するためには,動物はイヌイトの誰に対しても優位な立場にあらねばならない。
結果として
,イヌイトは動物に対して支配と管理につながるような方法,例えば牧畜を採用することはできなくなり、相手に従属する弱者の立場から相手に働きかける誘惑の技、つまり弱者の技である戦術を駆使する狩猟や漁労,罠猟,採集に徹することになる。

現代社会では、基本的に水・貨幣・エネルギーといった資源をコントロール(支配)している。この世界で、発酵や狩猟のような世界観を取り戻すことはできるのか?
もし取り戻すとすれば、それに必要なのは、志や個人の資質に由来するものではなく、制度的な設計が必要だろう。
例えば、ドイツでは減価する地域通貨が流通している(キームガウアー)。時間に応じて数%ずつ価値が減衰していくのだ。そのことで、貨幣の特権的な地位に楔を打ち込んでいる。そうした制度によって「恩恵を受け、分かち合うことしかできない」という世界観の普及にどう影響するのか、気になっている。
日本と天災
日本に暮らす人に染み付いた劣位者の世界観は、「天災」という観点だと思う。
以前、風や自然の価値観への影響について触れたが、やはり日本では、地震や洪水や大雨など、天災の被害が大きく、価値観に影響していると思う。
「シン・ウルトラマン」「シン・ゴジラ」「すずめの戸締り」等、実際の天災であれ、偶像としての天災であれ、脅威を災害とみなし、手を取り合ったり対抗する世界観があるように思う。
引用文献
田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」
宇宙をかき乱す世界の肥やし(現代思想 45(22):2017.12)
世界生成の機械としての文化(「人新世」時代の文化人類学)
引用していないけど議論の下地にしたもの
現代社会の特徴である「活動が何かの目的のため」であり、それ以外がノイズになっていることについて、下記を参照。
 
かけがえのなさと代替可能性の交差についての理論的な議論は下記を参照。