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時をかける少女(アニメ映画)の分析 「出会いと別れ」と「見えの共有(共視)」

時をかける少女

アニメ映画の時をかける少女は、コミカルでありながら切ない美しさを描いた、アニメ映画の最高峰の一つだと思う。
そのシナリオを少しでも理解するために、シナリオ分析をしてみよう。

手掛かりになるのは、「出会いと別れ」と「見えの共有(共視)」という日本文化的なパターンだ。

時をかける少女のあらすじは、ごく単純にいうと次のようになる。
高校生の真琴は、同級生の千昭と功介と仲が良い。
真琴はたまたま身につけたタイムリープ能力(時間跳躍能力)を使って面白おかしく過ごしたり、恋に戸惑ったりする。
その後、タイムリープ能力を持ち込んだ同級生の千昭が未来人であることが判明し、千昭との別れに伴い、真琴は能力を喪失する。

では、「出会いと別れ」と「見えの共有(共視)」の2つの視点から、日本の昔話と比較して分析していこう。なぜ昔話かというと日本文化のパターンがストレートに現れているからだ。

出会いと別れ

まず、「出会いと別れ」という日本の昔話の構造について見ていこう。
(なお、議論の参考として池上嘉彦(「ことばの詩学」)と河合隼雄(「昔話と日本人の心」)をもとにしている)

日本の昔話の特徴的な構造は「出会いと別れ」にある。「鶴の恩返し」や「浦島太郎」、「羽衣」が分かりやすい例だ。いずれも主人公と異世界の住人が出会い、別れて行く話だ。

昔話の典型的なパターンは、次のようになっている。
①日常から遠い「超自然的な存在との出会い」
②「幸福な生活(共に生きる)」
③「別れ」

鶴の恩返しでいうと、次のようになる。
①貧しい夫婦が鶴を助ける。その後で鶴が若い娘に偽装して家にくる(出会い)
②鶴が娘としてよく働き、家族は幸せに暮らす(幸福な生活)
③鶴の秘密が露見し、別れる(別れ)

河合隼雄はこの「出会いと別れの」のパターンについて、
「本性(秘密)を隠したままの出会い→秘密の露見による別れ」と定義している。

鶴の恩返しでは次のようになる。

①貧しい夫婦が鶴を助ける。鶴が若い娘に偽装して家にくる(本性を隠したままの出会い)
②鶴が娘としてよく働き、家族は幸せに暮らす(共に生きる)
③鶴の秘密が露見し、別れる(本性の露見)

重要なのは、本性を隠したままでやってきて、それが露見して別れることだ。

時をかける少女ではどうなっているだろうか。シナリオをごく単純化すると以下になる。
①千昭(未来人)が転校生を偽装して現代の学校にやってくる。主人公(真琴)や功介と仲良くなる(本性を隠したままの出会い)
②3人は楽しく日々を過ごす(共に生きる)
③千昭(未来人)の秘密が露見し、別れる(本性の露見)

「本性を隠したままの出会い→秘密の露見→別れ」という流れを、鶴の恩返しの解説でみてみよう。

    男は禁止を破った。女は怒らなかった。女は禁を犯した男の罪を責めるのではなく、自らの裸を見られた恥を強く感じて去ってゆくのである。
    (略)
    女にとって、私は何か、という本性、つまり裸の真実を男に知られた限り、共に生きてゆくことが出来ないことを意味しているのである。彼らが夫婦として生き続けてゆくためには、彼女の「本性隠し」は完璧でなければならないのだ。「鶴女房」のどの類話を見ても、突然に現れる女性が鶴の化身であることは、最初はすべて伏せられている。男は禁を犯した時にはじめて、自分の妻の素性を知って驚くのである。そして、このことは夫婦別れの条件として自明のこととして受け止められ、あれほど妻を愛していたかのごとく見えた夫も、妻の出ていくのを止めはしないのである。
    (河合隼雄,定本昔話と日本人の心 p186)

時をかける少女でも、登場人物の感情が若干違うが基本的な路線は同じだ。
(千昭が未来人であることがバレてしまった時に恥ではなく残念さを感じるのが違う)

つまり、ある意味で「時をかける少女」は「現代版 鶴の恩返し」と言える。

ちなみに「(日常から遠い)超自然的な存在との出会いと別れ」というパターンは「劇場版(大長編)ドラえもん」など、現代の多くの物語でも踏襲されている。

日常から異世界への往還

もう一つ、昔話のパターンと比べてみよう。
異世界への往還」というパターンだ。
鶴の恩返しでは、鶴は非日常の世界(超自然的な世界)から日常の世界(人間の世界)へやってくる。そして非日常の世界(超自然的な世界)へ帰っていく。
鶴を迎えた夫婦は逆に、日常の世界から非日常の世界に足を踏み入れ、日常の世界に帰っていく(下図)。

時をかける少女」でも同様に、千昭は非日常の世界(未来)から日常の世界(現代)へやってくる。そして非日常の世界(未来)へ帰っていく。
千昭を迎えた真琴は逆に、日常の世界から、タイムリープという非日常の世界(未来)に足を踏み入れ、日常の世界に帰っていく(下図)。

また、河合隼雄は、「日常の世界と非日常の世界」という構造を、心の構造に照らし合わせて、「意識の世界と無意識の世界」としている(下図)。

たとえば「時をかける少女」では、真琴は日常の意識的な世界から、タイムリープをすることで、無意識的な世界に行って、そしてまた日常の世界に帰ってくる。
詳しくいうと、真琴は、タイムリープによって、意識していなかった恋、そして友情、そして自身の楽しさと自己嫌悪という、無意識的な感情に出会う旅に出るのだ。そしてまた日常の世界に帰ってくる。

また、河合隼雄は、日常と非日常の世界が出会う場所として、中間帯を定義している(下図)。日常から来たものと、非日常から来たものは、中間帯で出会うのだ。「時をかける少女」で言うと、中間帯は学校だ。現代の真琴と未来から来た千昭は、中間帯である学校で出会うのだ。

真琴は学校でタイムリープ能力を得て、失い、日常に帰ってくる。
逆に千昭は、学校から、現代社会に馴染み、そして未来へ帰っていく。
中間帯として学校があったから2人は出会うのだ。

「見えの共有(共視)」

続いて「見えの共有(共視)」という視点から検討してみよう。
日本文化のパターンと時をかける少女では「見えの共有(共視)」というパターンが共通している。

まず「見えの共有(共視)」ということ自体の説明をする。

例えば友達何人かで桜を見て、次のような会話があるとする。

 「わーっ、満開」
 「すごいね!」
 「いつまで咲いてるかなあ」

この時、友達同士は、桜という目の前の情景を共有し、共同で注意を払っている。つまり見えているものを共有している。
それが「見えの共有(共視)」だ。「見えの共有」、難しく言うと「共同主観」は日本語話者の認知・発話の基本姿勢だ(守屋三千代:編「自然な日本語を教えるために」)。

また、たとえば夏目漱石が「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳したとされているが、それも同様の発想と考えることができる。
夜空に浮かぶ月という、2人に見えているものを共有し__美しいという思いを共有する。それが日本人にとって「好きです」ということにつながる、ということだ。

時をかける少女に戻ろう。
時をかける少女では、未来人の千昭がそもそも現代に来たのは、未来で失われてしまった絵画を見るためだった。
真琴は、千昭が絵を見たかったことを知るが、しかし一緒に見る機会は永遠に失われてしまう。真琴のせいで、千昭は絵を見ずに未来に帰ってしまうのだ。

 千昭「どうしても見たい絵があったんだ――どれだけ遠くにあっても、どんな場所にあっても、どれだけ危険でも」
 なにも展示されていない一角。
    
 千昭「見たかった絵なんだ。俺の時代ではすでに焼失してしまった。この時代以前では所在がどこかも判らない。あると確実に記録に残っているのは、この時代の、この場所のこの季節だけだった」
 真琴「見るだけでいいの?」
 千昭「見るだけでよかった」
 ゆっくり目を閉じる。
 千昭「一生忘れないつもりだった」

しかし、真琴は絵を守ることを通して、千昭と未来を共有する。

 真琴「あの絵、未来へ帰って見てね」
 千昭「……」
 真琴「もうなくなったり、燃えたりしない。千昭の時代にも残ってるように、なんとかしてみる」

言わば、真琴と千昭は「絵を見る(守る)」ことを通して繋がっている。
会う機会は永遠に失われてしまった__しかし、見えているものは共有できるし、未来は共有できるのだ。

ここで、おおまかな分析は終わりだ。
ここからは、分析の補足として、もう少し詳しく検討しよう。
補足は2つで、1つは「昔話の因果応報」について、もう1つは「見えの共有(共視)」について。

補論1:日本的な昔話の構造、因果応報について

さきほど、日本的な昔話のパターンとして「出会いと別れ」を扱った。そのほかに昔話の構造では「禁止と違反」や「因果応報」というパターンもあり、「時をかける少女」にも影響している。
少し検討してみよう。

まず、「出会いと別れの」のパターンについて、河合隼雄は「本性(秘密)を隠したままの出会い→秘密の露見による別れ」と定義している。一方、池上はより抽象的に「本性の露見」ではなく「禁止の遵守→違反」と図式化している。

どういうことかというと、禁止を遵守している間は「幸せな生活」を送り、違反の結果別れる、ということだ。
鶴の恩返しでは、「ふすまを開けてはいけない」という禁止を遵守している間は「幸せな生活」を送り、違反の結果別れることになる。

この<禁止>→<違反>のパターンは、もともと、物語分析ではロシアの昔話研究が基礎としてあって、そこに見出されたパターンだ(プロップによる研究)。
その後<禁止>→<違反>を含む、あらゆる文化に見られる物語構造を一般化する試みがあった。(グレマス等)

<禁止>→<違反>について簡単にまとめると次のようになる。
1.<禁止>→<違反>の例は、グリム童話アメリカ・インディアンの民話など多くの物語に現れる。
たとえば童話『おおかみと七ひきのこやぎ』では
「扉を開けてはいけない(禁止)」→「狼に騙されて開けてしまう(違反)」となる。
また、世界のことわざの多くでも<禁止>→<違反>の例が見られる。
「夜、爪を切ってはいけない(禁止)→切ると親の死に目に会えない(違反の結果)」など。
2.なぜ<禁止>→<違反>が民話やことわざの普遍的なテーマになっているのかというと、人が社会生活を送る上での教育的な価値があるからだ。民話は、社会の構成員に対して守って欲しいルールを教えるという意義がある。
3.しかし、<禁止>→<違反>を中核として、それにどう文脈が結びつくかで、各文化の個性が出るため、その表現方法は多様である。
例えば、日本に民話では<禁止> → <違反>は「因果応報」と結び付けられて語られることが多い。

<禁止> → <違反>→ <報いを受ける>という形で。

では「時をかける少女」について見てみよう。
真琴がタイムリープ能力を乱用しているのは、ある意味で<禁止>されていることを<違反>していると言える(タイムリープ能力は、本当は未来人である千昭の能力で、勝手に使ってはいけないから)。
その結果、<禁止> → <違反> → <報いを受ける>という物語になっている。

報いを受けるのは、真琴の身代わりにされた同級生だったり、真琴自身だったりする。
例えば料理教室で真琴のヘマをタイムリープで帳消しにした際は、同級生が報いを受ける。
また、真琴のタイムリープ乱用の報いとして、千昭と友梨が付き合ってしまったり、功介と果穂を自転車事故に巻き込んでしまったり、千昭が未来に帰る原因になってしまったりする。

つまり、「時をかける少女」の表の構造が「出会いと別れ」であるならば、裏の構造として「因果応報(<禁止> → <違反> → <報いを受ける>)」という形になっている。

ちなみに本編でも、魔女おばさんが真琴に指摘している。

和子「よかった」
真琴「なんで」
和子「(タイムリープを)大したことには使ってないみたいだから」
真琴「(ムキになり)そんなことないよ。もう最高だね、タイムリープ。やめらんないよ、これ。毎日が楽しくって楽しくって、笑いが止まりませんよ!」
爆笑。
和子「真琴がいい目見てるぶん、悪い目を見てる人がいるんじゃないの」
ふと、冷静になる真琴。
真琴「いるのかな……?」
和子「さあ」
知らん顔でケーキを食べている。

他にも、日本の漫画などでも「因果応報」のパターンがよく見られる。
たとえば「こち亀」では「両津勘吉が良からぬことを思いついて実行する → 詐欺同然に金を儲ける(ある意味で社会通念に違反) → その結果として報いを受ける」という展開が多い。
また「必殺仕事人」という昭和に長く続いたシリーズでも「因果応報」が見られる。
「必殺仕事人」では基本的なストーリーとして「悪人が栄華を誇るが、恨みを買って、最終的に仕事人に暗殺される」という感じだが、これはある意味で悪人が自滅する物語であり、「因果応報」のパターンを踏襲している。

以上で補足の1を終えるが、「禁止 → 違反」については簡単にしか触れなかったので、興味があれば原本をあたって欲しい。(池上嘉彦「ことばの詩学」)
「ことばの詩学」では、「禁止 → 違反」の文化的な多様性についても語られている。例えば、日本では「因果応報」と結び付けられるが、ロシアの民話では<禁止> → <違反>を<不在>と結び付けられていたりする。
また、インディアンの民話では<禁止> → <違反> → <物事の成り立ち>という形で語られる、など、<禁止> → <違反>に結びつくものは文化によって多様なのだ。

補論2:「見えの共有(共視)」について

見えの共有について、もう少し詳しく見ていこう。
本論では言語学的な視点から触れたので、今度は心理学的な視点から「見えの共有」について見ていこう。
心理学者の北山修は、浮世絵の中に「共視母子像」と呼ばれる「絵の中で同じものを眺める母子」の絵が、日本において奇妙に多くあることに気づいた。
↓鯉を共に見る母子

同じものを見て喜びを共有する。
浮世絵のこの母子の光景は西洋画には無い光景という。
北山修:編「共視論」)

心理学的には「見えの共有」は「ジョイント・アテンション」と呼ばれるらしく、幼児の成長過程の1つとして「他者の意図や心的状態を読み取り始める」一大ターニングポイントらしい。
幼児は母親と「見えているものを共有」することで、言語や文化を学び、他者の意図を想像できるようになる、その学習を始めるのだ。

この母子関係を元にした「共視」は、日本人の人間関係に大きな影響を与えている。

 「正面から向き合ってお互いをみつめることよりも、ふたり並んで同じ方向に視線を向け、同じひとつの対象を瞳でまさぐることが、より直接的な交感の瞬間を形作る」という言葉に、日本人の好む人間関係のあり方が示唆されている。
 (略)
 日本人は共視、とりわけ並行共視の関係を好ましく感じると言えるだろう。
    (北山修:編,共視論 p163) 

夏目漱石の「月が綺麗ですね」のように、同じものを見て、思いを共有するということを日本人は好ましく感じている。

しかし悲しいことに「同じものを見る」というのは、あくまで一時的なことなのだ。
2人で見ているものを共有するのは、あくまで一過性のことであり、思いの共有も一時的な幻として、いずれ儚く消えていく。

時をかける少女では「(野球等で)バカをやっている楽しさ」の思いを共有し、それが「恋」によって破綻するところで物語が動いている。

真琴「なんだかな――ずっと二人でいられる気がしてたんだよね。遅刻して功介に怒られて、球捕れなくて千昭にナメられて……」
千昭「――真琴」
真琴「ん?」
千昭「俺とつきあえば?」
真琴、絶句。
真琴「……止めて」

しかし、また最後に「未来の絵」という「共視」対象を得る。

 真琴「あの絵、未来へ帰って見てね」
 千昭「……」
 真琴「もうなくなったり、燃えたりしない。千昭の時代にも残ってるように、なんとかしてみる」

つまり、「共視」→「共視の破綻」→「共視」という、思いの共有と、それが崩れる儚さ、そしてまた思いを共有する希望が描かれている。

また、浮世絵のなかの共視対象には、蛍、花火、しゃぼん玉と、「面白い」がやがて浮かんで消える「はかない」ものが多いらしい。
心理学者の北山は次のように、その儚さについて述べている。少し長いが引用しよう。

 共有していた対象も、やがて消えていくものであり、二人のつながりの「うつろいやすさ」がそこに示されているようである。母子関係も、色里の恋と同じく、「面白うてやがてかなしき」となる。
 つまり、二人の共視対象は、二人の「未来」を示している可能性がある。
 母子のつながりは、絶対的な「血のつながり」「乳のつながり」という文字通りの体験から出発し、時間とともに、条件つきのもの、モノや言葉を介した比喩的なものへと変わっていく。はじめは乳児の思いに母親が応えて「つながっている」という錯覚が維持されるが、母親は子の思いにいつまでも上手に応えられるわけではなく、「つながり」の錯覚は、やがて「通じない」という事実によって切れることになる。私たちは、万能感に満ちた二人だけの世界から、通じることの困難な世界に出て行かなければならない。そして、思い通りになったかもしれないが、現実には思い通りにならないという具合に、「つながっている/つながっていない」という二重性を噛みしめてこそ現実的なのであり、「つながり」は現実ではなく錯覚なのである。
    (北山修:編,共視論 p23) 

 同時にこの美しさには、人が言葉を獲得して文化に参入する小児期の移行の危機が孕まれている。ここに留まりたいが留まれぬ、移りゆく時期の惹きつけるところと不安の問題がある。
    (北山修:編,共視論 p5) 

このように、「見えの共有(共視)」には、それが一時的なものだからこその儚さ、そして美しさがあるのだ。
思いを共有して、そして失う、それが日本的なパターンの1つと言えよう。

こうした「見えの共有(共視)」は、多くの日本の物語に活かされている。
例えば「反発し合う立場のものが、やがて思いを同じくして、1つのことに立ち向かっていく」という物語はよくある。
例えば弁護士と検事が、弁護士は人を救いたい、検事はなにがなんでも有罪にしたい、という対照的な思惑の中で争う中、次第に「真実を明らかにする」という思いを共有していく、という話など(逆転裁判)。

 

では、やや長くなったが、補足を終える。
次の記事では、まったく別の視点から「時をかける少女」の分析を試みる。

なお、以前、これとは別の日本文化のパターンとして 連続体 という価値観 について考察した。
今回の記事と合わせて読むと、基本的な日本文化のパターンは理解できると思う。

少女の通過儀礼という基本テーマ(2022/0704追記)

言い忘れていたが、時をかける少女の基本的なテーマは「モラトリアム状態から、恋に気づき、恋を失う(逆説的には失うことで、恋を得る)というテーマだ。

恋を知らなかった少女が、恋を失うことで、自分はもう恋ができるということを知り、運命の人との出会いを待つようになる。そういう通過儀礼、成長の物語として原作小説はまとめられている。

彼女は決定的な選択をせず、モラトリアムの中にいたいと無意識のうちに思っている。だから彼女は、タイムリープの能力を手に入れると「同じことを何度もできる力」「あったことをなかったことにする力」として活用する。

『時をかける少女』細田版が答えた「残されていた問い」とは? | 文春オンライン

そういうような、少女の通過儀礼として物語が基本的なテーマであることを追記しておく。

参考文献、参考サイト

▽書籍
河合隼雄「定本昔話と日本人の心」
池上嘉彦「ことばの詩学
守屋三千代:編「自然な日本語を教えるために」
北山修:編「共視論」
シナリオ作家協会:「年鑑代表シナリオ集 ’06(2006)」(記事中のシナリオ引用)
▽HP

『時をかける少女』細田版が答えた「残されていた問い」とは? | 文春オンライン

シンとザナルカンド ~FF10の構造分析(3)

夏目漱石がI LOVE YOUを「月が綺麗ですね」と訳した理由