物語のメモ

物語・植物・心理学・文化人類学・IT等について/月1回更新目標

風、あるいは文化的な自然の影響

風という文化観

日本では感覚として、風に良いイメージがある。
そのイメージは、よく歌の歌詞にも表れている。

    もう忘れてしまったかな
    夏の木陰に座ったまま 氷菓を口に放り込んで風を待っていた
    
    もう忘れてしまったかな 世の中の全部嘘だらけ
    本当の価値を二人で探しに行こうと笑ったこと
    (ヨルシカ/花に亡霊)

風は、退屈な日常を変えてくれる。

あるいは、夏の暑い日に風が通ると気持ちよかったり、草原を走り抜ける風は見るだけで爽やかだったりする。
逆に、じめじめするのは嫌なイメージがある。湿っぽいカビとか、じめじめした梅雨の蒸し暑さとか。

この感覚は、単なる気持ちの良さだけでなく、比喩にも繋がっている。
人や文化でも、陰湿なのはイメージが悪く、爽やかさなものはイメージが良い。
由来を考えてみると、もともと日本では衛生観念として、カビや腐敗をさけるために陰湿さが忌避され、その逆としての風や爽やかさが重視されたのかもしれない。

価値観にもそれが反映され、陰湿さは忌避される。例えば陰湿ないじめは悪とみなされ、ホラー映画では恐怖が陰湿さと結びつけられる(ホラー映画の貞子は井戸からじめっと出てくる)。

逆に風は、良い意味だったり、象徴的な意味で使われることが多い。

日本語では、風に象徴的なイメージを与えているものが多い。
「風を起こす」「風通しをよくする」「風を待つ」「風向きが変わる」など。

さらに風には良いイメージだけでなく、生命力としてのイメージが付随する。

「マナ」という言葉がある。

    マナ(mana)は、太平洋の島嶼で見られる原始的な宗教において、神秘的な力の源とされる概念である。
    人や物などに付着して特別な力を与えるとされるが、それ自体は実体性を持たない。元々は、メラネシア語で「力」という意味
    (マナ - Wikipedia

「マナ」は何にでも力をもたらす、ある意味で生命力のようなものだ。「マナ」は「運」のように、実態がないが実在していると信じられている。そして、何にでも付与されるし、世界の根源としても考えられる。

日本における「マナ」的なものが何かと言えば、それは「風」だと思う。
風が吹いて爽やかであれば良い感じだし、生命力を感じる。

たとえそれが間違っていたとしても、爽やかさは善に見えるのだ。

漫画で次のようなワンシーンがある。少年が旅行先で荷物を盗まれるが、盗んだ相手がやけに爽やかで良い印象を持ってしまうのだ(ジョジョの奇妙な冒険 第5部 で広瀬康一がジョルノに荷物を盗まれるシーン)。

描写としての風

また、日本の多くのアニメ映画では風が象徴的に使われている。
特に印象的なのは宮崎駿だ。宮崎アニメでは、風は生命力や力の象徴であり、神が宿るものだ。

トトロでも、もののけ姫でも、ナウシカでも、宮崎アニメ特有の「ぶわっっ」と体に風が巻き起こるような感覚が、印象的に描写される。
あるいはもののけ姫では森の中で風が起きる感覚が神と結びつけられている。それに、そもそもナウシカ風立ちぬは風についての映画である。

ラピュタでも、印象的なシーンでは、風が出てくる。

例えばシータが落ちてくるシーンでは、ふわりと風をはらみながら落ちるシータをパズーが受け止めるところが印象的だ。
それに、パズーがシータを助けに行く中盤で「すり抜けながらかっさらえ!」と言ってパズーがシータをシュッと抱えて、まさにかっさらうシーンがある。そこでは、パズーが風そのものとなっているかのようだ。

宮崎駿はまさに「風の作家」だと思う。

自然に対する感覚の文化観への影響

もともと日本では衛生観念として、カビや腐敗をさけるために陰湿さが忌避され、その逆としての風や爽やかさが重視されたのかも、という話を先ほどした。
そのように、自然に対する態度を人や社会に向ける、という考え方がある。

和辻哲郎は「風土」という本の中で、世界の風土を3つに区分して、それぞれの自然と価値観を論じた。

    第一は東南アジア、中国、日本などを含む「モンスーン地帯」。この地域の特徴は、暑熱と湿気の結合である。このような気候は人間にとって耐え難いものであるが、同時に生物を繁茂させる。つまり自然の暴威に耐えながらも、自然の恩恵に浴することも事実である。ここに忍従的、受容的人間像が形成される。
    第二はアラビア、アフリカ、蒙古などに広がる「砂漠地帯」。ここは乾燥を特徴とし、自然に生気がなく荒々しい。この地方から一神教が発生した。彼らは不毛地帯を生き延びなければならない。また乏しい自然の恵みを求めて、他部族との激しい戦闘が繰り返される。それゆえにこそ、絶対服従による部族内の結束が不可欠であった。唯一神への信仰が彼らの結束を強めたのである。
      第三は(以下略)

和辻哲郎 - NPO法人 国際留学生協会/向学新聞

平たく言うと、日本は次のようになる。

    日本を含めたアジア全体が属するモンスーン型風土においては、湿潤な自然が人間に大きな恵みを与えると同時に、時に大きな災害ももたらす。いずれにせよ、そこでは人間は自然に対して受け身的になるという。
日本人のものの考え方

そしてその結果、自然に対する態度が、人や社会にも向けられるのだ。

日本では災害が多い。
台風などの災害が起きて、甚大な被害があって、そして日常に回帰する。
大雨で「何もかも水に流れた、しかしそれもおしまい」ということが繰り返され、その結果「水に流す」という言葉が誕生してもおかしくない。

災害のように、人や社会に何かあっても、それもいつしか過ぎ去ってしまう(あるいは過ぎ去ったことにしてしまう)のだ。そのような価値観が「水に流す」という言葉には込められている。

あるいは逆に、脅威が災害として例えられる。
外敵やアクシデントは、災害のようなものなのだ。

例えば、映画「シン・ウルトラマン」での怪獣(禍威獣)はあくまで自然災害の延長としての怪獣なのだ。その証拠に、対抗する組織は「防災庁・禍威獣特設対策室(禍特対)」という防災組織だ。

これは、ハリウッド映画でゴジラが 人の知性の通じないモンスターとして扱われたのとは対照的だ。

終わりに

以上のような「人の価値観が自然観に影響を受けている」というのは、個人的にはある程度妥当だと思う。
また、こういうことを考えると「じゃあ欧米における日本の「風」のようなものは何か」などの空想も膨らむ。(ちなみにアメリカは「光」だと思う。光=正義(justice)=生命)。

しかしそして、やはり日本では「風」が、何か良い感じの元であり、生命力の源なのだ。
例えばヨルシカの歌詞なんて「風」ばっかり出てくる。 

    高架橋を抜けたら雲の隙間に青が覗いた
    最近どうも暑いからただ風が吹くのを待ってた
    
    木陰に座る
    何か頬に付く
    見上げれば頭上に咲いて散る
    
    はらり、僕らもう息も忘れて
    瞬きさえ億劫
    さぁ、今日さえ明日過去に変わる
    ただ風を待つ
    (ヨルシカ/春泥棒)

やはり、日本では風は良い感じのものであり、生命力の源なのだ。
カゼノトオリミチとか名曲も多い)

余談

ここからは余談だ。

攻殻機動隊でも風が吹いている

アニメ映画「攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL」を見返してると、ラストシーンで風が吹いて素子の髪がふわっとしていた。
あれだけ途中で、知性とかネットの海とか無機質なことを言って、最終的には生命力である「風」を描写してるじゃん。ズルじゃん、と思った。

(もしかしたら、ある意味で「ゴースト」の概念と「風」の概念的な親和性があるのかもしれないが)

マナについて、文化人類学

本文中のマナと風についての考察は、文化人類学の議論に恩恵をうけている(マナ・運・生命力の関係などについて)。
私の知っている限り、80年代にマナについての議論が盛んだった(他にもマナと「もののけ」の関係の議論など。小田亮渡辺公三などが議論の中心だった)。

私がそれを読んだのは2010年代になってからだが、この議論はその後どうなっているんだ、と思う。あまりフォロワーがいない。まだまだ価値がある議論だろうに。

特にレヴィ=ストロースの「ゼロ記号」の話は、文化人類学的なフォロワーをさっぱり見かけないが、あれこそが「レヴィ=ストロースの可能性の中心」という小田の意見に賛成だ。マナはそもそも世界を成立させる(無根拠な)立脚点であり、それゆえに重要なのだ。