物語のメモ

物語・植物・心理学・文化人類学・IT等について/月1回更新目標

野生の思考・たとえ話・無理問答・物語

 

野生の思考・たとえ話

人が何かを理解するとき、因果関係として理解する考え方のほかに、たとえ話で理解する考え方がある。
たとえ話というのは実は、小難しく言うと『物事の関係性を見て、自分の知っている物事の関係性と同じかどうか』で理解しているのだ。
どういうことだろうか。例えば、Aさん、Bさん、Cさんという3人が居て、3人の関係性を「じゃんけんのグーちょきパーみたいな関係だよ」と聞けば、直感的に理解できる。つまり、「AさんはBさんに弱く、BさんはCさんに弱く、CさんはAさんに弱い」というようなことが分かる。この理解の仕方は、レヴィ=ストロースがトーテミズムに見いだした「野生の思考」として知られている。

トーテミズムについて解説しよう。トーテミズムというのは「動植物などが、ある部族などと特別の関係にあると信じられている」ことだ。

トーテムというのがその動植物だ。

例えば、ある部族(またはスポーツチーム)Aのトーテムが『熊』、別の部族(またはスポーツチーム)Bのトーテムが『鷲』、別の部族(またはスポーツチーム)Cのトーテムが『狼』だとしよう。

その場合、それぞれの部族・チームが熊・鷲・狼を信仰しているのだろうか。そういうわけではなく、A・B・Cの関係が熊・鷲・狼の関係と同じだ、と考えているのだ。

つまり、A←→B←→C = 熊←→鷲←→狼

たとえば、熊は狼に獲物をさらわれることがある、その関係が部族Aと部族Cの関係と一緒(部族Aは部族Cに獲物をさらわれる点が一緒)とか。たとえば、鷲は狼を狩ることがある、その関係が部族Bと部族Cの関係と一緒(部族Bは部族Cを狩ることがある点が一緒)、とか。

なので、特定の動植物がトーテムとして選ばれるのは、部族A・B・Cの関係を表すものとして、熊・鷲・狼が選ばれているだけなのだ。別に動物自体に意味があるわけではなく、動物同士の関係性が重要なのだ。
こうした考え方を、身近な例で考えてみよう。例えばある2人の関係を聞いたときに「あの人はドラえもんで言うのび太で、この人はジャイアンだよ」と言えば、すぐにその人の性格や関係性が分かる。「のび太」と言われた人は、ジャイアンの横暴に振り回されているのだな、とわかるし、「ジャイアン」は振り回す側なのだな、とわかる。
これがつまり「物事の関係性を見て、自分の知っている物事の関係性かどうか理解する」ということであり、人はこういう理解の仕方をしたときに「なるほど、わかった」と思う。

レヴィ=ストロースのトーテミズムの分析については、きちんとした解説を下記に引用しておく。

「トーテム信仰(氏族)」と呼ばれる未開社会の現象がある。「トーテム・ポール」の「トーテム」である。
例えば、九州地方に「熊本」という部族がある(笑)とすると、そのトーテムは熊であり、熊を崇拝し、自分たちの先祖は熊であると信じている。日常においては熊は食べてはならないが、祭りのときに熊の肉を食べたりもする。また熊族の間では結婚も許されず、互いに戦うことも許されない。
トーテムには、カラス族や、バラ族や、カミナリ族などがあったりする(笑)。 これは何を意味するのか、人類学者の難問であった。 レヴィ=ストロースの結論だけを言えば、トーテミズムとは人類学者が作り上げた幻想である。
それは差異を表わすシンボルとして選ばれたものにすぎない。 「トーテム制度が援用するのは、社会集団と自然種[動植物の種]の間の相同性ではなくて、一方で社会集団のレベルに現われる差異と、他方で自然種のレベルに現われる差異との間にある相同性なのである。それゆえこれらの制度は、一方は自然の中に、他方は文化の中に位置する二つの差異体系の間の相同性という公準の上にのっている。
自然 ; 種1 ≠ 種2  ≠ 種3 ≠ ……… 種n
文化 ; 集団1≠集団2≠集団3≠………集団n」
レヴィ=ストロース トーテミズムの分析

無理問答

同じような考え方に、無理問答と呼ばれる、禅問答となぞなぞの中間のようなものがある。
まず「AがBとはこれいかに」と、とんちのきいた問いかけをする(「AがBとはどういうことだ」という意味)。
これに答えて、もう一人が、「CがDであるがごとし」と、やはりとんちのきいた返答をする。

この問いかけと返答が無理問答である。
この無理問答もトーテミズムと同じ「野生の思考」だ。説明を引用する。

・一羽の鳥を鶏(にわとり)とは如何に
「鶏」を「二羽鳥」にひっかけて、「一羽」なのに「二羽」とはおかしいではない、どういうことか説明してみよ、というわけです。もともとまともに答えられるはずのない無理難題なのですが、答え方にも言葉遊びとしてルールが決まっています。

・(回答)一羽でも千鳥と言うが如し

つまり、並行する事例を持ち出して、それがけっして例外的な場合ではないことを示せばよいというわけです。次のようなものも類例です。

 

・花は紅でも葵(あおい)とは如何に。
→(回答)紅の花でも藍(あい)と言うが如し。

 

・山ばかりの国なのに山梨(山なし)県とはいかに。

→(回答)全国の中央にあるを尾張(終わり)と言うが如し。

 

(中略) 「無理問答」に見られるような答え方の持っている意味合いについて一言つけ加えておきましょう。「一羽なのに、なぜニワトリなのか」と問われて「一羽でもチドリと言うのと同じだ」と答えるのは、もちろん、まともな意味での説明にはなっていません。ただ類例をあげているだけです。

しかし、このような説明の仕方は、かつでフランスの有名な人類学者レヴィ=ストロースが科学の洗礼を受ける以前の段階の民族に見られる「説明」の仕方として「野生の思考」と名付けたものと奇妙な類似性をしめしています。

(中略) 「野生の思考」は新しい現象に出会った場合、それを既知の体型の中にそれと類比させうるものを見つけることによって「説明」できたものとします。

(中略) したがって、たとえば「一羽なのに、なぜニワトリか」という新しく説明されるべき現象が与えられた場合、この現象は既知の知識体型の中の「一羽でもチドリと呼んでいる」という事実と同質のものであることを指摘することによって「説明」されたとするわけです。
ことばの詩学(池上 嘉彦)

物語への適用

「野生の思考」の考え方を物語に応用してみよう。
物語では「他者に対する自分の関係」と「自分に対する自分の関係」を同じ関係性と考えて、物語を検討することが出来る。

どういうことだろうか。この考え方は、別の機会に検討したので、一部引用する。

少年漫画あるいは少女漫画では、他者との関係上の課題を、自分にあてはめるかのような考え方がしばしば見られる。

例えば、少年漫画なら、敵に勝利しなければならない。そのために、まず、自分に勝利しなければならないのだ。恐れを克服し、自身に立ち向かい、勝利する。そのことで敵にも勝利する。

例えば少女漫画なら、恋の相手と距離を縮めなけらばならない。そのために、まず、自分と距離を縮めなければならないのだ。自分の本心や美点に気づくなど、自分とのすれ違いを解消し、そして相手とのすれ違いも解消するのだ。
それを便宜上「少年の論理(序列の論理)、少女の論理(距離の論理)」と呼ぶ。
あなたと他者と社会と世界の重ね合わせ

物語における「野生の思考」を別の角度から検討してみよう。
『素直になれない主人公とヒロイン』という、恋物語における古典的なテーマを題材に検討しよう。
例えば、「主人公が自分に対して素直になること」と「主人公が他者に対して素直になること」とを同じと考えてみよう。
『素直になれない主人公とヒロイン』の物語のよくある展開はこうだ。

自分の気持ちに素直になれない主人公がいて、ヒロインに対しても素直になれない。物語が進み、主人公は自分の気持ちにもヒロインにも(少しだけ)素直になっていく。

この物語の展開を考える際、「主人公が自分の気持ちに素直になれない」ことと「ヒロインに対して素直になれないこと」ことが展開として同期していることが多い。

例えば、強がりを言って虚勢を張る主人公は、ヒロインに対しても素直になれない、という展開だ。つまり、主人公は、「自分への態度」と「ヒロインへの態度」が同じなのだ。

また、物語の進展の際に「主人公が自分の気持ちに素直になること」と「ヒロインに対してに素直になること」が同期していることが多い。たとえば、自分の気持ちを認めた主人公が、ヒロインに対しても素直に愛を伝える、などだ。
つまり、どういうことかというと、「自分に対する自分の関係」と「他者に対する自分の関係」とが同期している。「野生の思考」的な展開になっていることが多いのだ。

このような観点から、恋愛物語を分析することができる。

例にあげた展開のような物語として、個人的に連想するのは、映画『マイ・フェア・レディ』だ。『マイ・フェア・レディ』では、自分にもヒロインにも素直になれない主人公が、物語の進展を通して、ヒロインに対して素直になり、そして自分に対しても素直になっていく。

最後に

このような「野生の思考」をもとに物語を分析したり構築することで、色々発展性があるように思われる。もちろん、一面的な分析なので、これが全てという気はないが。

また、レヴィ=ストロースは現代でも過小評価されていて、その内包する含意については、もっとその可能性があると思う。この野生の思考だけでなく。


その他参考文献

(92)無理問答(むりもんどう)という言葉遊びが面白いです!

レヴィ=ストロース入門 (ちくま新書) | 小田 亮