物語のメモ

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あなたと他者と社会と世界の重ね合わせ

他者との関係性とあなたの物語

少年漫画あるいは少女漫画では、他者との関係上の課題を、自分にあてはめるかのような考え方がしばしば見られる。
例えば、少年漫画なら、敵に勝利しなければならない。そのために、まず、自分に勝利しなければならないのだ。恐れを克服し、自身に立ち向かい、勝利する。そのことで敵にも勝利する。
例えば少女漫画なら、恋の相手と距離を縮めなけらばならない(または縮まることによって幸福になる)。そのために、まず、自分と距離を縮めなければならないのだ。自分の本心や美点に気づくなど、自分とのすれ違いを解消し、そして相手とのすれ違いも解消するのだ。
それを便宜上「少年の論理(序列の論理)、少女の論理(距離の論理)」と呼ぶ。

少年の論理(序列の論理)、少女の論理(距離の論理)

ここでは少年漫画と少女漫画の典型的なパターンを用いて検討する。かなり簡略化して考える。
少年漫画の物語の典型はこうだ:
 1.主人公は敗北する
 2.主人公は己の特性を掴むor修行によって力をつける
  (=己に勝利する)
 3.主人公は勝利する
少女漫画の物語の典型はこうだ:
 1.主人公は恋相手と距離が遠いorすれ違う
 2.主人公は自分の美点を見出すor本当の思いに気づく
  (=己との距離を縮める)
 3.主人公は恋相手と思いが通じ合う
基本的には、少年漫画も少女漫画も1〜3の繰り返しだ。

ここで注目すべきは2で、2の行動によって、少年漫画なら勝利を得る手がかりとなり、少女漫画なら距離を縮める手がかりとなる。
つまり、対人関係上の課題と、自身の課題を重ね合わせているのではないだろうか。
少年漫画では敵への勝利が課題となる故に、自身への勝利も課題となる。少女漫画では、相手と距離を縮めることが課題となる故に、自分と距離を縮めることが課題となるのだ。
だから、ドラマはそれを阻害することによって波乱万丈を生み出す。少年漫画なら、どうしても主人公に勝利させまいとするし、少女漫画なら、どうしても主人公に自分の気持ちに気づかせまい(あるいは素直にならせまい)とするのだ。少年は自分に勝つことが難しく、少女は自分とのすれ違いをなくすことが難しいのだ。
このように、主人公は他者との関係上の課題と自分の課題を重ね合わせている、と考えられる。

あなたの物語と社会(世界)の物語の重ね合わせ

もう少し漫画を例に話を続けよう。あなたの物語、つまり個人の物語は、社会・世界の物語とも重ね合わせられる。
少年漫画なら、主人公の勝利が、社会や世界をよくするのか、という一回り大きな環境の勝利に重ね合わせなければならない。少女漫画なら、主人公が自身との距離を縮め、自身の望むことが、社会や相手から望まれることと一致していなければならない。望むこと、望まれることの一致が重なっているのか。それが焦点となる。
そして、あなたの勝利あるいは望みが、一回り大きな環境のものと重なっていることが、あなたの勝利/望みの価値を高める。
この、個人の勝利/望みが、社会や世界の勝利/望みと繋がっているか、あるいは善に繋がっているか、というのは実社会においても重視され、あるい仮定される。
例えば、多くの文脈で、スポーツ選手の努力は「他の人に希望」をもたらすと言われる。本来は、個人の努力と他人の希望は無関係である。しかし社会においては、個人の成果と社会の成果を結びつけなければ、価値が高まらない。また例えば、起業家というものが現代では持て囃されがちだが、それは、起業家の成功というものが、社会の思わぬ可能性を発掘し、社会にとっても有益になる、と考えられるからだ。
そもそも、資本主義自体が、個人の成功と社会の成功を重ね合わせている。資本主義の基本的な考え方は、個人や企業が利益を追求することで、社会経済が成長し、社会がよくなる、というものだ。

(資本主義経済は)自由競争により利益を追求して経済活動を行えば、社会全体の利益も増大していくという考え方に立脚しています。
資本主義と社会主義の違いは?

人は自分の物語と世界の物語を重ね合わせたがる。例えば、何かを主張するときに主語が大きいという問題がある。

いますよね 主語のデカい人
一人しかいないのに「私たち住民は断固反対する!」とか!
全員に聞いたわけでもないのに「我々都民は我慢の限界」とか!
自分の意見をみんなの意見のように言う 主語のデカい人!
さよなら絶望先生』 144話「ククリなき命を」より

自分の主張が、一回り大きな環境の主張と重なっていることで、価値が高まる。重ね合わせようとする意思は、本能のようなものだろう。

社会の物語と世界の物語

社会についての考え方を、世界や自然のルールに重ね合わせるということも歴史上で行われてきた。

ある経済パラダイトを正当化するために、そのパラダイムに見合った壮大な宇宙観の物語を創出するということが昔から行なわれてきた。

社会の新しい経済パラダイムは自然の秩序の反映であり、したがって、社会生活を営む唯一の正当な方法であると、人々が信じ込むのだ。(略)
どの社会も、周りの世界に働きかける自らの方法をなぞった自然観を構築してきた。そうすれば、自らの社会の構成は自然の道理に適っていると安心できるからだ。
出典:限界費用ゼロ社会 p90~100あたり

例えばキリスト教下の封建社会では、社会の考え方を自然のルールとして逆にあてはめた。

宇宙観を組み立てて既存の社会秩序を正当化する手法の好例として現代の歴史家が挙げるのが、被造物を「存在の大いなる連鎖」とする封建時代の聖トマス・アクィナスの説明だ。(略)生き物はそれぞれ知性と能力が異なるものの、そのような多様性と不均等は、体制全体が秩序を持って機能するために欠かせない。(略)神は個々の生き物に違いを持たせることで、自然界に義務のヒエラルキーを確立し、そうした義務が忠実に遂行されれば、この世の繁栄が可能になった。
被造物についての聖トマスの記述は、封建社会の成り立ちに驚くほど似ている。封建社会での生存は、すべての人々がそれぞれ、厳しく規定された社会的ヒエラルキーの中で己の務めを忠実に果たすことにかかっていたのだ。
出典:同上

そして、現代に続く資本主義社会では、社会の考え方を、世界のルールとして逆にあてはめた。

与えた影響が大きかったのが社会学者で哲学者のハーバート・スペンサーで、彼はダーウィン自然選択説を大々的に転用し、後に「社会進化論」と呼ばれるものを提唱した。
ダーウィンは)「生存競争において、形態、体質あるいは本能の面で何らかの利点がある種類が保存されることを、私は『自然選択』と呼んでいる。」
スペンサーの手にかかると「最適者生存」は、最適な生物だけが生き残るという意味になった。(略)
スペンサーは、市場における企業間の競争を社会の自然な進化的発達の表れと見なし、政府の干渉のない競争が許されるべきだと考えた。スペンサーの見解は、当時の大企業を正当化するのに役立った。
出典:同上

実際のダーウィンの説は、「自然選択」あるいは「自然淘汰」と呼ばれ、環境に適応しているか否かが生存と繁殖にかかわるということであって、優れているとか劣っているということではない。しかし、スペンサーは「適者生存」という造語を生み出し「優れた者が劣った者を蹴落として、富を手にするのは当然だ」というような説を提唱し、社会の考え方を自然にあてはめた。
そして、いったんルールが自然にあてはめられると、もともとは社会の考え方だったものが、より大きな自然のルールとして、世界の前提条件のようになってしまう。そして、それ以外のルールなど考えられなくなる。

このように集団的自己正当化が無意識のうちに進行し、民衆の心にしっかりと根づくと、経済と社会の構成のされ方に対する批判は、どんなものであれ異端の説あるいは愚かな言葉と見なされるようになった。
出典:同上

現在社会では、気候変動や環境問題、格差の問題などから、別の社会の考え方が構築されつつある(共生など?)。しかし、いずれにせよ、ある種の社会の考え方を世界のルールとして重ね合わせるだろう。

おまけ:ブギーポップの時代

私の学生時代にブギーポップは笑わないという本が流行った。それに続く著者の小説を愛好していたし、今でも愛好している。その後、2019年にブギーポップの一部が再アニメ化された。しかし、レビューや声優のインタビューなどを見ると、当時の時代感だからすごく印象的だったことが、現代の若者にとっては印象に残らないのだなと思った。その理由の一つは世紀末的な時代感だと思うが、もう一つの理由は進化論的な世界観だと思う。あの時代、まだまだ、スペンサー的な進化論があり、生存競争と適者生存によって、優れたものが進化する、という感じの発想があった。進化は前進という発想だったのだ。
上遠野氏の一連の著作には、そういった進化論が多少なりとも反映されている。つまり、先ほど述べた「当時の社会論を世界論にあてはめて」いるのだ。そのせいで、現代の若者にはそれほど印象的にならないのかもと思う。

参考
ダーウィン進化論に生じる誤解
生きづらいのは進化論のせいですか?