物語のメモ

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物語における意思の継承、言葉の連続体

この文章では、日本語を話す人のイメージ(連続体というイメージ)に基づいた、物語や言葉の好みについて論じます。

意思の継承

真実に向かおうとする意志
そうだな…わたしは「結果」だけを求めてはいない。(略)
大切なのは『真実に向かおうとする意志』だと思っている。
向かおうとする意志さえあれば、たとえ今回は犯人が逃げたとしても、いつかはたどり着くだろう? 向かっているわけだからな……………違うかい?
出典:ジョジョの奇妙な冒険

日本の名作と呼ばれる物語では、意思の継承が描かれることがある。「ジョジョの奇妙な冒険」では、戦いの中で死にかけたキャラクター(アバッキオ)が、死の間際でかつての仲間との言葉を思い出し、仲間に向けて、敵の手がかりを残そうとする。アバッキオは死ぬが、意思は残るのだ。
また、近年(2021/2月現在)人気の「鬼滅の刃」でも、意思・役割の継承がテーマという指摘が多い。
鬼滅の刃のテーマは「継承」であり家族愛などではない
竈門炭治郎は冨岡義勇に「役割」を継承したのか?
「継承」と「永遠」の物語として洗練された脚本
このように「継承」というのは好まれるパターンだと言えるだろう。
また、物語という長いものではなく、新聞記事という短いテキストにおいても、(「継承」ではないが)「継続」という考え方が指摘されている。例えばスポーツ記事の終わり方において、日本語と英語を比較した結果、日本語では次へのつながりが強調されることが多い。

例えば、「得点源がいるだけに、これが勝ちパターンになるかもしれない(『朝日新聞』2006年6月12日)」や「必ず打線も奮起する。きっと投打の歯車が再びかみ合ってくる。(『読売新聞』2007年7月11日)」などに典型的に見られるように、日本語の新聞報道では、試合が完結したものではなく、「次へのつながり」や「継続性」が強調された特徴を備えており、日本語の無界的特徴が反映されていると考えられる。
談話レベルに見る〈有界性〉と〈無界性〉 (多々良直弘)

「継承」「次へのつながり」「継続」、これらは類似したものと考えて良いだろうか。また、そのようなパターンがなぜ日本で頻出したり、好まれたりするのか。
鍵は上記の引用で出てくる〈無界性〉という言葉だ。
近年検討が進められている仮説として、日本語を母語として生まれた日本人に、はじめから刷り込まれた感覚として『〈無界性〉への志向性が存在する』という仮説がある。無界性とは、区切られていないこと、限界のないこと、などを指す。
実例がないとわかりにくいので、まずは言葉遣いから検討してみよう。一般的に、日本語表現では輪郭をあいまいにするという特徴がある。(太字があいまいにする表現)

a.今までに横町を3つばかり曲がった。(夏目漱石三四郎』)
b.そのかたまりが大きいのと小さいのと合わせて3つほどある。(同上) c.お茶でも飲みませんか。
日本語の「無界性」をめぐって(斎藤伸治)

この特徴が無界性の一つの例示だ。また、現在の私たちの言葉遣いでも、表現の際に輪郭を曖昧にして、ぼかす、というのは珍しくない。例えば次のような会話は、日本語として普通に聞こえると思う。(太字がぼかし表現)

A:映画とか見に行かない?
B:どういうの?
A:ホラー系かな
B:うーん、アクション系の方がいいかも

言葉遣いのこういった輪郭の曖昧さも、〈無界性〉への志向性と考えることができる。では〈無界性〉とは何なのか。認知言語学的な観点によると、〈無界性〉とは連続体というイメージと言われている。連続体というのは、言葉からイメージする通り、個体ではなく連続的なもの、個体を超えた連続的なもの、ということだ。例えば日本語のなかには、液体でさまざまな事物を表す例がたくさんある。(太字が液体表現)

「時間が流れる・噂が流れる」「人が道にあふれる・勇気にあふれる」「金に溺れる」「べたべたした感情」「言葉がほとばしる」「嫉妬が渦巻く」「澄んだ気持ち」「不満が漏れる
日本語のメタファー(鍋島弘治朗)
《言葉は液体》のメタファー再考 ─日中対照の観点から─

これらもまた、個体ではなく流体(液体)表現すなわち、〈無界性〉と考えられる。
ここで最初の問いに戻る。
Q:「継承」「次へのつながり」「継続」、これらは類似したものと考えて良いだろうか。また、そのようなパターンがなぜ日本で頻出したり、好まれたりするのか。
A:日本人に連続体のイメージが根付いているため、「継承」「次へのつながり」「継続」というパターンが好まれる。
つまり、最初に述べた「ジョジョの奇妙な冒険」や「鬼滅の刃」などの物語においても「継承」が好まれるのは、日本語話者に連続体のイメージが染み付いているため、と考えることができる。

リフレインとしての物語演出

個体を超えた連続的な表現、ということから、リフレイン表現を見てみよう。映画監督である小津安二郎は、自身の映画において、反復・繰り返しによるリフレイン表現を、セリフなど多岐に渡って用いている。

 小津の映画ではさまざまなものが反復や繰り返しをするのが特徴である。  それはセリフ、動作、ショット、テーマ、モチーフなどと多岐にわたっている。
 たとえばセリフの場合だと、「いいよ、いいんだ、いいんだよ」「凄いな、凄い凄い」といったふうな同じ言葉の繰り返し。また「そうかね、そんなものかね」「そうよ、そうなのよ」「ふーむ、やっぱりそうかい」といったオウム返しのようなセリフのやりとり。
 こうした単純な繰り返しが心地よいリズムを生み、小津的世界を構築する要素となっていく。
 また動作の反復の例をあげるとすれば、「父ありき」の有名な渓流釣りのシーンがあげられる。
 父と息子が流し釣りをしながらこれからの生活について話をするというシーン。
 相似形に立ったふたりがまったく同じタイミングで針を投げ入れては流すという動作を繰り返す。
 さらに映画の後半で成長した息子が父親と久しぶりで再会し、かってと同じように釣りをするという場面が現れる。
 ここでも先のシーンと同じようにふたりいっしょに針を投げ入れるという動作を繰り返す。
 こうした相似形と動作の反復から感じられるのは父と息子の幸せな関係である。
 諸事情から父と別れて暮らさなければならなかった息子の父を慕う気持ちと敬いがこうした<かたち>のシーンから痛いほど伝わってくる。
 そして同じシーンを繰り返すことで長い時間を経た後も父と子の幸せな関係が変わらず続いているといったことも伝わってくるのである。
小津安二郎の反復

結論

結論として、連続体による表現技法は、言葉遣い・物語のテーマ・演出等の全般で効果的と考えられる。

補足:弱いサピア=ウォーフ仮説

言葉と思考の関係について、少し補足する。
「言葉が人の思考に影響するか」という命題について「言葉によって思考が決まってしまう」というサピア=ウォーフ仮説が最初に提唱された。これを強いサピア=ウォーフ仮説という。その後、その仮説が否定された。現在は「言語は思考を決定はしないが、影響を与えている」という弱いサピア=ウォーフ仮説が広く検証されている。そして今回の論考もまた、弱いサピア=ウォーフ仮説の立場に(一応)立っている。

覚書

議論にうまく入らなかった話を書いておく。以下は自分用。

リフレインとしての演出:発話時の単語のリフレイン
日本語には言葉の後につく「接尾語」が多い。
接尾語とは「神さま」「僕たち」「春めく」「社長さん」「会社」「宣伝マン」「悲観ムード」「サボ」など。
同じ言葉を語尾を変えて繰り返し、主体を希釈していくとの指摘(下記)。

したがって、日本語には機能接尾辞がきわめて多くて、前接語が複雑であるという特徴 から、つぎのように推測することができる。主体は、用心や反復や遅滞や強調をつうじて 発話行為を進めてゆくのであり、それらが積み重ねられたすえに(そのときにはたんなる 一行の言葉ではおさまらなくなっているだろうが)、まさに主体は、外部や上部からわた したちの文章を支配するとされているあの充実した核ではなくなり、言葉の空虚な大封筒 のようになってしまうのである、と。したがって、西欧人にとっては主観性の過剰のよう にみえること(日本人は、確かな事実ではなく印象を述べるらしいから)も、かえって、 空虚になるまで細分化され微粒化され曲折された言語のなかに主体が溶解し流出してゆく。
 記号の国(ロラン・バルト)