爽やかさについての刷り込み

さっぱりしたい、清らかでいたい、曇りなきまなこで物事を見つめたい__それに異論を唱える人はあまりいないと思うが、それはどこからきているのか?

ここでは、日本における不思議な価値観であり、ほとんど誰もが無意識的に「好ましい」と思ってしまう「爽やかさ」について考察する。

 

その前に次の引用文に目を通してから、今後の考察を見てほしい。次の文章を読んで、さっぱりしたくなるだろうか?

"全てがわずらわしい__そんな感じだった。日々の仕事も、うるさい上司も、駅で出会う人混みも、何もかもがわずらわしく__そしてそんな些細なことに苛立つ自分も、全てがめんどくさかった。心が澱(よど)んでいた。

つまり私は__重苦しいものを捨てて身軽になりたかった。さっぱりしたかったのだ。"(「蛇と虚空に花束を」より)

本題に移ろう。

まず、言い切ってしまうと、日本人は「爽やかさ」が好きだ。そしてその逆として、じめっとしたものを悪と捉えている。

じめっとしたものは濁(にご)りに繋がる。濁(にご)りは悪で、清らかなものが良い__そういう発想は、日本人に染み着いていると言っても過言ではない。

例えば言葉一つとって見て考えても、発音の上で濁っているものは悪く、澄んでいるものは良い。例えば、じっとりは気持ちが悪いがしっとりは良い。ぎらぎらはなんだか不気味だが、きらきらは美しい。ざらざらは不快だがさらさらは心地よい。

そして言葉に限らず、文化の面で考えても、爽やかさは重要だ。例えばテレビの中の多くのアイドルは、男女を問わず爽やかさをウリにしている。

そして逆に、じめっとした人間関係に代表される陰湿さは、その「陰」という言葉からしてマイナスのイメージだ。

 

爽やかさはなぜ良いのか。まずはそこから考えてみよう。

そもそも人は最終的に死につながるものを嫌う。

病気や貧しさは言うまでもなく嫌なものだ。なぜならそれが、死につながるからだ。そして、その逆の、権力、金、人気などが好ましいのも、結局のところ「死からどれだけ遠かったか」を示しているからだ。権力、金、人気は、それらを持っていれば持っているほど死から遠ざかる__だから人は求める。

爽やかさも似たようなものと仮定して考えてみる。どう考えられるだろうか。

爽やかさが特に好まれているのは日本で、だ。ということは、日本固有の「死につながる」背景を考えてみればいい。そう考えると、日本の気候の特色である、夏の蒸し暑さが考えられる。夏のじっとりとした暑さは死につながる__食べ物が腐ることにつながり、不衛生な雑菌がはびこるのに繋がり、病気が流行りやすくなる。

そこから離れるため、逆の価値観として爽やかさが尊ばれる、と考えることができる。(ちなみに、気候的に類似した東南アジアについては私が知らないため、ここでは触れない)。

爽やかさの例を考えてみよう。さらさらとした流水のような透明感や、からっとした夏の乾いた日__これらは、「じめっとしたこと」=「死」を避けるために好まれたと考えられる。そしてその考えが染み付くと、それが人や文化に対しても使われるようになる。

さっぱりした人は好ましくて、カラッとした明朗な人はいい感じで、そして、その極限として「清らかさ」が存在するとも考えられる。

日本では古来「清らかさ」は圧倒的に最上位に置かれている価値観の一つだが、それはある意味「爽やかさ」の極限として考えることができる。

 

また、気候が価値観に影響するかどうか考えるのに、別の例を考えてみよう。太陽が乏しい国である北欧を例に考えてみよう。スウェーデンをはじめ北欧では太陽が基本的に乏しく、それが鬱を引き起こしたり、光合成でできるビタミンDが足りなくなったりしている。つまり、太陽の欠如が生命の危機につながっている。

そんな文化では太陽はどのように扱われているのか?聞くところによるとスウェーデンでは、夏の日光はみんな大好きらしい。ほとんどの人が外で日光浴をし、バーベキューをしたり寝転がったりして多くの時間を過ごす。日本から行った人はそれにびっくりするそうだ。そういう太陽を好む文化が「価値観」にまで結びついているかは分からなかったが、しかし太陽の乏しい国では太陽をより尊ぶ、と少しは言えるだろう。太陽の欠如が死につながるからだ。

 

話を元に戻して、日本における爽やかさとじめっとしたイメージについて考えてみよう。

例えば、日本のホラー映画では、まず間違いなく「じめっとした」ものが忍び寄ってくる怖さがある(そしてハリウッドでリメイクされるときは、その「じめっとした怖さ」は大抵切り捨てられる。彼らには理解できないからだ)。

また、アニメを例に考えると、アニメのOPでは異様なまでに、次のようなシーンがある。キャラクターが走っているシーンや、風が吹くシーンや、草原が出るシーンだ。基本的にこれらは全て「爽やかさ」を演出していると考えられる。

また、お話の中でも悪人は基本的に「じめっとした人」と描かれることが多く、逆に「カラッとした清らかな人」は正義の側に位置付けられる。

もののけ姫の主人公のアシタカを例に考えてみよう。アシタカの、人となりやセリフを知っているだろうか?彼は清らかな心を持つだけでなく、自身でもそれを元に判断することを言うのだ__曰く「曇りなき眼で見定め、決める」。

 

この爽やかさについての話の着地点はどこかというと、必ずしも爽やかじゃなくても良い、ということだ。

爽やかさというのは、今まで見てきたように、単に気候的・文化的な刷り込みのため、本来冷静に判断すべきことまで間違って判断してしまうことがある。

例えば、悪人でも爽やかそうなら「もしかして良いやつかも」と思ってしまったりする。(「ジョジョ 5部」を知っている人は、開始時のエピソードを思い浮かべて欲しい。カバンを盗まれた康一くんは、盗んだjojoを「なんか爽やかそう」だから良いやつかも、と思ってしまうのだ)

または、色々うじうじ悩んだり、怒りを抱えたり、そういう状況自体を好ましくないものだと思ってしまう。本来、悩みや怒りに善悪はないが、「さっぱりしておらず、身軽でない」という心境を、「爽やかでない」=「悪」と思ってしまうのだ。しかし、本当はそれらがマイナスかどうかはわからない。 

逆に言えば、爽やかさは印象操作としても使える。

例えば、あなたがお話をするとして、どんなに暗い救いようがない話でも、口調をカラッとさせたり、または最後に少し爽やかな感じにすれば、日本人的に「なんとなく爽やかだったし良いか」と思ってしまうのだ。

例えば、あなたが学生時代に片思いのあげく告白して振られたとしよう。しかし、振られて、失意の中でぼんやりするあなた、そこに風がふいて髪をふわっと巻き上げられたとしよう__そうすると、なんとなく良い感じのイメージにならないだろうか?これはある意味内容とは無関係に、爽やかさで印象操作する方法だ。

だから、爽やかさのイメージを上手く使えば、仮にじめっとした内容でも人気を得ることができる。例えば少女漫画の「ハチミツとクローバー」は、片思いの連鎖というジメジメした内容にも関わらず、ふしぎと「爽やか」な感じを打ち出して男女問わず好まれた漫画となっている。

つまり爽やかさは料理でいう風味のように扱えるのだ。

これはCMに有名人が出ているようなものだ。ドリンクのCMで美人かイケメンが出ていたら、ドリンクを飲んだことがなくても好ましいと思ってしまうのと同様で、爽やかであれば良いイメージを与えてしまうのだ。 

あるいは、松岡修造を知っているだろうか?彼は特にインターネット上で人気だが、見た目や言動がどうにも暑苦しい__つまり、日本的なイメージでは本来マイナスだ。しかし松岡修造のすごいところは、同時に爽やかでもあるところだ。つまり、暑苦しいけど爽やか、という、一見相反するイメージがあって、それが人気の一因なのだ。

取り止めがなくなったが、最後に、「爽やかでない」ことが必ずしも悪いことではない、ということを強調して終わりにしたい。 

例えば、冒頭にあげた引用文を再び見て欲しい(次の段落)。あなたは、さっぱりすることが良いことだと思ってしまわないだろうか?

"全てがわずらわしい__そんな感じだった。日々の仕事も、うるさい上司も、駅で出会う人混みも、何もかもがわずらわしく__そしてそんな些細なことに苛立つ自分も、全てがめんどくさかった。心が澱んでいた。

つまり私は__重苦しいものを捨てて身軽になりたかった。さっぱりしたかったのだ。"(「蛇と虚空に花束を」より)

 繰り返すが、爽やかなことが良いかどうかは、本当はわからないのだ。

余談だが、この記事を書いた私は北海道で生まれ育ったためか、気候的な「じめっとした」夏の暑さについては全然知らない。そのため、勝手なイメージで記事を書いた。

補足

1 文中で例に出した、濁った音は悪いイメージの例として、オノマトペ(擬音語)をいくつか例に出したが、あれは恣意的だ。必ずしも濁った音でも悪いイメージにならないオノマトペも勿論ある。例えば、ざっくりと話すの「ざっくり」、どっかりと座るの「どっかり」など、正負のイメージがつかないものもある。

2 気候が文化に与えた影響として和辻哲郎の「風土」がある。ここでは触れなかったが、真偽は別として有名だ。

3 作中の引用は架空のテキストである