何かを確かにする過程としての物語

物語では、何かが確かなことになる。その理由を示し、納得させるのが物語だ。

例えば進研ゼミの小漫画(こどもの頃によく送られてきたやつ)では、いつもストーリーが同じだ。進研ゼミをやることで、成績が向上し、部活や恋もうまくいき、自分の人生を良い方向に進めることができる。こういうストーリーだ。

ここでは、「人生を良い方向に進める」ということを納得させるために進研ゼミが活躍する。勉強の成績が向上するばかりか、一見関係ない恋や部活においても(心に余裕ができてうまくいくなどの形で)進研ゼミが役に立つのだ。

もうすこし別の例を見てみよう。

例えばジョジョの奇妙な冒険の第5部では、最終的に確かめるべきことは「正しい方向へと向かう意志」だ。物語の途中において、そのテーマは主人公たちが行動する過程で何度も示される。「大切なのは『真実に向かおうとする意志』だ」や「生き残るのはこの世の真実だけだ。真実から出た『誠の行動』は決して滅びはしない」などの形で。物語はそれを納得させるためにストーリーが展開する。たとえ一度間違った道へ行っても正しい方向へ歩き直したり、仲間が死んでも意志は残る、などの形で。

逆に、敵となるのはその確かさを失わせることだ。

「正しい方向へと向かう意志」を確かめるには、それと相いれないことと戦わなくてはいけない。その極致としての敵が第五部のボスだ。ボスは、時間を飛ばし「結果だけを手にする」という能力で、主人公たちは戦う。

そして最終的に勝つときの手段は、主人公の「過程を延々と刻み続ける」能力だ。

ここでは「正しい方向へと向かう意志」の確かさが物語を通じて読者に納得できる形で語られている。

 

もう一つ別の例を見てみよう。ハンターハンターのグリードアイランド編だ。

ここで確かめるべきことは何か。それは「グリードアイランドをゲームとして楽しむ」ことだ。それに基づいて主人公たちは、ゲームの世界のイベントを消化したり、楽しんだりする。そこで敵となるのは「私利私欲を優先するためにゲームとして楽しむことをやめる」ことだ。

例えば、グリードアイランド編の最終的な障害はボマーたちで、彼らはゲームとして楽しむのではなく金目当てで殺戮を繰り返す。主人公たちはこれと立ち向かい、ゲーム的な「決闘」という形でケリをつける。また、この最終的な障害だけではなく、途中で「ゲームを(ビジネスとして)組織的にクリアする」グループに誘われた時も、主人公たちはこれを拒否する。なぜなら彼らはゲームとして楽しみたいからだ。

そしてこのゲームの最後では、このゲームを最もやりこんだものにしか勝てないクイズが出され、そこで主人公たちは優勝する。グリードアイランド編の戦いは、すべて「ゲームとして楽しむ」ことを納得させる形になっている。

 

このように物語では何かの確かさが示される。

そしてそのために進む以上、物語の盛り上がりは「確かさがどれだけ危うくなるか」に影響される。

たとえばジョジョ5部で「正しい方向へ向かおう」とする最大の障害が「結果だけを手にすること」のように、物語ではあることの確かさを徐々に増していくが、そしてその確かさが最も危うくなるのがクライマックスなのだ。

 

だから、逆に考えると、話を作るのにおいて、クライマックスをどうすれば良いかということは、「表現したいことの確かさを最も失わせるのは何だろうか」ということから考えると、最終的な障害を作りやすい。また、こう考えるとその障害は、必ずしも対立する敵でなくても良い。別に主人公の内面の拮抗する意見であっても良いのだ。

 

またちなみに、「確かである」ことを示すのはなんでも良い。

抽象的なテーマ(「正義とは何か」とか)を示すのでもいいし、もっと具体的に「好きな人と結ばれる」だとか「殺人事件の謎をとく」でもいいし、それこそ「セミを見つける」でもなんでも良いのだ。物語としてそれを確かめることを邪魔するものがいれば。