物語の中の遊びにおける感覚移入

 

物語では問題を解決するために、何からのゲームや遊びをする。そして見ている側が物語を楽しめるかどうかは、見ている側がそこで行われている「遊び」が魅力的に思えるかにかかっている。さらにいうと、魅力的なだけでなく、「遊び」に共感できるかどうかにかかっている。 とくにそこでは体の感覚の共感が必要になる。

例えば紅の豚という映画がある。この映画では主人公である豚の飛行機乗りが、プライドをかけて「飛行機で戦う」という勝負をする。そこでは、飛行機を飛ばすシーンはとてもかっこいいし、飛ぶときの風や振動まで伝わってくるようだ。飛行機の機体が揺れ、プロペラが回転し、機体がだんだん加速していく。 そのとき見ている方は、飛行機を飛ばす主人公の体の感覚に共感しているのだ。

ほかにも、映画ではないが、よく知られたスーパーマリオというゲームについて考えてみる。そこでは、姫を救うために飛んだり跳ねたりして面をクリアする。スーパーマリオをプレイしたことがある人ならよくわかると思うが、マリオを操ってジャンプさせると、マリオと共に自分が飛んだり跳ねたりする気分になる。マリオではほかにも、勢いをつけすぎて止まれずに滑ったりするが、そういう「ツルっ」という感じまで伝わってきたりする。

物語では主人公がいろいろなアクションを行う。そしてその感覚に共感できるかどうかが、そのアクションを楽しめるかどうかに影響し、ひいては物語を楽しめるかを決めている。

そして本来、「主人公のアクション」つまり「物語の中の遊び」は問題解決の手段でしかない。しかし、手段という意味を越えて、単にそのアクション自体が楽しいかどうかが物語の受け手には重要なのだ。

さきほど見たスーパーマリオでは、プレイする人は、マリオを操って進むのが楽しいだけだ。プレイヤーはさらわれた姫をそれほど助けたいわけではないし、さらったクッパに恨みがあるわけでもない。ただ、マリオをジャンプさせて敵を踏むのが楽しいのであって、姫やクッパはあくまで方便なのだ。

 

物語でもほぼ同様だ。手段に共感できなければ楽しくない。

例えば、大きな喜びが最後に待っているとしよう(喜びは姫と結婚するでも何でもいい)。しかし、そのための手段が「穴をほって埋める」ということだとすれば、それを何時間も我慢できるだろうか?

逆に、共感できるとか、ついつい真似したくなるような遊びがあれば、その時点でかなり読者は満足だ。ドラゴンボールは「かめはめ波」によって全国のちびっこの心を掴んだし、るろうに剣心では「牙突」や「二重の極み」で少年の心を掴んだのだ。どちらも、めちゃくちゃやってみたくなるのだ。

また、例えばアニメ映画「時をかける少女」では、主人公の真琴が持つタイムリープという能力が、実際に「ジャンプする」というアクションを伴って表現される。時間を巻き戻すには、重い体を浮き上がらせなければならないのだ。真琴は劇中で、「飛ぼう」とするが(川に落ちたりして)失敗することを繰り返し、ついに飛べるようになる。その時は見ている方も、とても嬉しい。飛べるようになった真琴は「私、飛べんじゃん!」と言うが、観客も同時に「私、飛べんじゃん!」という気分になっている。タイムリープという時を巻き戻す能力が、「ジャンプする」という体の感覚を伴って表現されているからこそ、観客は心情以前に体の感覚で共感できるのだ。

 

ここまでをまとめると、物語の中のアクション(遊び)は、見ている側に体の感覚が伝わってくるようなものでなければ、そのアクションを楽しめず、ひいては物語を楽しめない、というものだ。

 

さてここまでは、アクションの感覚について考えてきたが、アクションの本来の意味である「問題解決の手段としての遊び」という意味に立ち返って、別のことを考えてみよう。キャラクターについてだ。

たとえばゲームのような自分でプレイする物語と、ドラゴンボールのような見ているだけの物語では、何が違うだろうか?大きな違いは、見るだけの物語にはたくさんのキャラクターがいることだ。そしてその時、見ている側としては、何をもって一人一人を別のキャラクターとみなしているだろうか。それは「技の一貫性」だ。

例えばドラゴンボールでは悟空はかめはめ波を打つことで敵を倒すが、ピッコロは「魔貫光殺砲」を打つことで敵を倒そうとする。言い過ぎかもしれないが、もし「魔貫光殺砲」を悟空が打てたら、それはもう悟空じゃない。

そしてこの「技の一貫性」は、キャラクターそれぞれの「問題を解決する手段の一貫性」なのだ。物語の中の遊びが問題を解決する手段である以上、技=解決の手段だからだ。

こういう風に考え直すと、キャラクターをキャラクターたらしめているのは、目的に向かうそれぞれの手段だ。

わかりやすく現実で考えても、「お金持ちになる」とか「幸せになる」というみんな共通の目的があったとして、それに向かう手段はそれぞれ違う。その人の独自性が出るのは、どのように「お金や幸せを手に入れようとするか」だ。

誰かは幸せになるために「職業で成功する」ことを重視するかもしれないし、別の誰かは「どの街に住むか」を重視するかもしれない。どんな物語でも目的があり、それを達成する手段を選ぶ時に、それぞれの独自性が現れるのだ。

そのため、物語ではキャラクターを考える時に、問題解決の手段をそのキャラごとにある程度固定しなければならない。問題解決の手段である技を磨くことはあっても、ほいほい変わってはいけないのだ。そうするとキャラクターの一貫性がなくなってしまう。むしろ手段そのものがキャラクターと言える。

 

ほかにも少女漫画を例に考えてみよう。そこではもっともわかりやすく、「恋人を獲得するための手段」=「その人の性格」となっていたりする。つまり、その女の子がどんな性格であるかが、王子様を手に入れられるかどうかを決めるのだ。そこでは「性格」=「問題解決の手段」=「技」なのだ。

少女漫画において、少し変わった例を考えてみよう。ハチミツとクローバーという漫画では、出てくるキャラクターは恋を手に入れようとしているが、その中で変わった手段をとるキャラがいる。山田さんだ。

山田さんは、片思いをしており、その恋を成就させたくて、基本的に負け惜しみを言い続ける。「~だったらいいのに」とか「なんで~じゃないんだろう」とか「あきらめられない」ことをずっと言っている。しかし彼女も自分自身で恋が叶わないことがわかっている。

山田さんは負け惜しみを言い続け、最終的に、本来欲しかった恋ではないものの、別の恋を獲得する。つまり山田さんの技は「素直に負けを認めない」というで、そして山田さんはそれを貫き通すことで、最後に勝つのだ。

もし、急に物わかりがよくなって、あっさり諦めてしまったら山田さんではないが、しかしそれでも変わった例であることも確かだ。(余談だが、個人的にハチミツとクローバーが好きな点の一つは、こういう普通ならネガティブな要素が最終的に勝ちにつながるところだ。理花さんもある意味、過去に囚われまくっていることで真山を手に入れるし)。

なんにせよまとめると、勝つにせよ負けるにせよ物語のキャラクターは自分の技を貫くべき、ということだ。少なくともよほどのことがない限りは。

 

途中キャラクターの話にブレたが、物語を楽しませるには、「遊び」や「演出」において、感情的な共感を超えて、身体の感覚的な共感が重要、というのが今回のテーマだ。

 

なお、今回の記事を書くにあたり下記の「ゲームにおける身体感覚移入の話」話を参考にした。面白いのでよろしければどうぞ。

http://d.hatena.ne.jp/hamatsu/20100402/1270225024