物語における「全は一、一は全」の設計。

物語では「全は一、一は全」となるように設計しないと、その話に対してあまり満足感がない。満足感というより納得感かもしれない。『「全は一、一は全」となるように設計する』とは、単純にいえば主人公の成功が周りの成功にもつながる、ということだ。この意見は特に目新しいものではないが、これについてこれから考えてみる。

まず「全は一、一は全」とはどういうことか考えてみる。

「全は一、一は全」とは、もともとキリスト教の聖書の言葉だ。意味は「この世で最も大きなもの」と「この世で最も小さなもの」が等しい、ということだ。

人を例に考えると、「一人」は世界においては「この世で最も小さなもの」だ。そして、「この世で最も大きなもの」は、「世界」とか「地球」だ。そこまでスケールが大きくなくても、「国」や「住んでる街」とか「家族」や「友達」が「その一人を含む大きなもの」である全となる。

その「一と全」が等しいということを、そのままの意味で考えるのではなく、互いに矛盾しないと考えてみる。お互いがお互いにとって目障りではなく、むしろお互いがお互いにとって得をするということだ。

 

そういう話を考えてみよう。一である主人公の成功が周りの成功にもなる話である。

例えば、あなたはサッカー部に所属している。

そのあなたに好きな人がいる。マネージャーだ。だがあなたは彼女に思いを伝えられず、練習中にも気になってしょうがない。そして彼女を気にするあまりサッカーのパフォーマンスが落ちている。練習中で凡ミスをするし、試合になっても気持ちが入っていない。部活のチームメイトはそんなあなたにイライラしている。

さて、そのマネージャーもあなたのことが好きだとする。あなたとマネージャーはよく話すようになり、一緒に下校したりと仲良くなって、そして付き合うことになる。

そしてその結果、あなたは毎日が楽しくなり、気がかりが一つ消えて練習に打ち込こめるようになる。試合でも、ゴールにつながる良いパスを出せたりする。これにはチームメイトも満足だ。「おまえ、やるじゃん」という感じだ。

この場合、あなたは満足し、彼女も満足し、そしてチームメイトも満足している。

つまり「あなたという小さな一人」が成功することが、「彼女やチームメイト」という「あなたを含む周り」も成功することにつながっている。

「彼女やチームメイト」は小さなグループだが、小さくても「一を含む全」だ。

つまり「あなたの満足」=「彼女やチームメイトの満足」であり、これが「全は一、一は全」となるような話だ。

さらには、もしその部活の活躍によって地域が盛り上がったりすれば、さらなる大きな「全は一、一は全」の話にもなるかもしれない。

 

逆の場合を考えてみよう。

「あなたは満足する」が、チームメイトや彼女が満足しない場合だ。

例えば「あなたが彼女と付き合うようになったは良いが、お互いにうかれて遊びすぎ、あなたはサッカーがどうでもよくなって適当にプレイしだす」ということだ。この場合、チームメイトはますますイライラするだろう。

ほかにも「実は付き合っていて楽しいのはあなただけで、彼女はそんなあなたに合わせているだけで実はつまらない」という場合もある。つまりあなたにとっての満足は、彼女にとっての不満足という場合だ。

これらのような場合「あなたの満足」=「彼女やチームメイトの満足」になっておらず、これだと「全は一、一は全」になっていない。

これらの場合、もしあなたが主人公ではなく主人公の友人だったとして、手放しで納得がいくだろうか?素直に「良かったね、おめでとう」と言えるだろうか?

たぶん、手放しで祝福できるのは、この話より先ほどの「みんな満足」話の方だと思う。

これには異論があるかもしれない。「みんな満足」した話だと、面白みにかける。確かに祝福はできるし、納得感はあるかもしれないが、あまりにストレートに幸せな物語すぎて、面白くない、とか。

 

じゃあ別の形の話にしてみよう。

あなたが彼女と付き合うこととなったところまではさっきと一緒だ。しかし彼女の「あなたが好き」の度合いは、あなたが「彼女を好き」な度合いより低い。つまり彼女はあなたをちょっと重たく感じているが、引っ込み思案な彼女はそのことをあなたに言えない。そして付き合ううちに、彼女はついに耐えきれなくなり勇気を出してあなたと付き合うのをやめるとつげる。あなたは一時的に衝撃を受けるが、自分の押し付けがましい側面を自覚して直そうとしたりする。またはヤケクソでサッカーに打ち込み直す。そして再びチームに溶け込み活躍する。

ある意味ではこの場合でも「全は一、一は全」となっている。

なぜなら、あなたは恋で失敗したもののそれを糧にするという形で成功し、また、彼女は勇気を少し持てるようなるという形で成長し、チームメイトも、サッカーを再び真面目にやるようになったあなたに満足だからだ。つまりみんな得をしている。

それにもしかしたら、変わることができたあなたを彼女が見直して、また付き合うことになるかもしれない。そうなると、あなたと彼女の満足度はさらに高く、別れたまま終わる場合よりも強い「全は一、一は全」となる。

 

ある意味これも「みんな満足」話であるが、最初のストレートな「みんな満足」話より、こちらの方が面白いと感じる人が多いかもしれない。それは妥当で、こちらの方が単に障害が多いからだ。障害が大きい方が、話が盛り上がる(ワクワクやドキドキする)。極端な例としてのロミオとジュリエットでは、二人の恋を妨げる障害があまりにも大きい(二人は対立する両家の子女だ)。だから観客は盛り上がる。「この障害を超えて恋を成就させてくれ」と。

だが、こうした盛り上がりと納得感は別の話だ。

盛り上がりとは別に、物語が「全は一、一は全」になるかが話の受け手の納得を分ける鍵だと思う。「一」である人が「全」である社会や自然の中で生きている以上、「一と全」の両立というのは、重要な問題だからだ。

異論があるかもしれないが、とりあえずそう仮定する。

 

この考えに沿って、いくつかの物語を見てみよう。

例えば「天空の城ラピュタ」という映画がある。主人公であるパズーは、誘拐された少女シータを救い、そして世界を支配しようとするムスカの野望を阻止する。パズーにとっての目的は、シータを救ったりラピュタを発見することだが、それが同時に世界を救うことにもなっている。つまりここでは、「一」であるパズーにとっての成功と、世界が救われるという「全」にとっての成功が一致している。逆に悪役であったムスカはその逆で、「一」であるムスカにとっての幸せは、「全」である他人の幸せに繋がらない。

「一」の成功が「全」の成功につながるかどうか、そこが話の悪役と正義役を分けている。例えばムスカと同じように私利私欲で動く空賊(ドーラ婆さん)は、その私利私欲が結果としてパズーたちを助けることにつながるので、話における正義役になっている。

 

別の映画「時をかける少女(アニメ)」を見てみよう。

この映画のメインは「こども(遊びたい盛りの高校生)である少女が恋心を自覚することで大人になる」話だ。そして主人公が操る「時間を巻き戻す(タイムリープ)能力」は、そのための道具だ。

あらすじを細かく言うと、主人公の真琴はタイムリープ能力を偶然手に入れる。そして、男友達の告白に狼狽してその告白をなかったことにするため時間を巻き戻したり、カラオケでもっと遊んだりするため時間を巻き戻す。そのうち、告白をなかったことにした男友達が、自分の友達と付き合い始めたりしていく中で、自分の男友達への恋心を徐々に自覚する。それに伴い他人の恋心にも気づく(下級生の恋を応援する)。

そして物語の最後で、主人公はタイムリープして、男友達である千秋を救う。そしてほぼ同時に、自身の恋心を受け入れ、千秋の告白を受け入れる。つまり、千秋を救うという全の成功と、自身の恋心を受け入れるという一の成長が一致している。

ここで、一の成長についてはともかく、「全」については千秋を救うだけでは成功とは言いづらいかもしれない。しかし「一」の成長が「全」の成功へとつながっているシーンが数多くある。真琴は千秋からの告白を受け入れたあと、その後、自分の進路を決めたり(進路は物語の始めでは決まっていなかった)、下級生の恋の応援をするためキャッチボールに誘ったりと、真琴が成長し、その結果社会に溶け込んでいる様子が描かれているからだ。

(なお物語のクライマックスでは「恋心を受け入れる(告白の受け入れる)こと」と「千秋を救うこと」の両方をするためにタイムリープするシーンがある。真琴は、自身が千秋を救う力を宿していることを知り、そしてまた、『待ち合わせに遅れて来た人が居たら、走って迎えに行くのがあなたでしょ』というアドバイスを思い出し、タイムリープで迎えにいく。「告白を受け入れる」ことと「男友達を救う」ことの両方のためにタイムリープをするのだ。その際の「いっけええーーーー!!!」のシーンはとても感動する。)

 

このように、「天空の城ラピュタ」ではシンプルに、「時をかける少女」ではやや複雑だが、「一と全を両立する」物語が描かれている。

もちろん物語のすべてがこうした作りになっているわけではないが、こういう物語が人に満足感をもたらすことは間違いないと思う。なぜなら、先に一度言ったように、「一」である人が「全」である社会や自然の中で生きている以上、その「一」と「全」の両立を目指すことが必然だからだ。

 

もう一つ別の話を見てみよう。短い話だ。

とある博打打ちの話だ。その話では、主人公が博打で勝つ。それにより、ヤクザに陥れられた少女の借金を帳消しにする。

話のあらすじは、まず、流れ者の博打打ちであった主人公が、少女と出会う。その少女の一家は、ヤクザのいかさま博打で借金を押し付けられており、少女の姉は借金のカタにヤクザに身を捧げそうになっている。

そこで気まぐれを起こした主人公は、少女に次のように持ちかける。「ヤクザとの博打に勝って、姉を取り戻してやる。しかし姉を取り戻す代わりに、妹であるお前が自分に身を捧げろ」と。少女はその提案に乗る。

そしてすったもんだの末、主人公はヤクザの博打打ちのイカサマを見やぶり、同時に自分もイカサマをして博打に勝つ。これによって少女の姉は解放される。また、イカサマをしていたヤクザは身を滅ぼす。

これは今たまたま読んでいた「やる夫は旅の博打打ちのようです 第二話 」の話だ。そしてこの物語は短いながらも「主人公の成功(勝利)」と「全体の平和」が一致する作りになっている。

逆に言えば、物語では「主人公の成功(勝利や成長等)」が「全の成功(ここでは平和)」と一致するように設計することが必要、ということだ。そういうゲームとして。

 

例えばドラゴンボールを例に考えてみると、文字通りゲームになっていることが多い。ピッコロ(ジュニア)との戦いを考えてみよう。そこでは、天下一武道会というゲームで優勝を目指すことが、ピッコロに勝利することにつながり、同時に世界を救うことになっている。そのしばらく後のセルゲームでも、セルの作ったゲームに勝つことが、そのまま世界の命運をかけるになっている。

 

物語ではこのようにゲームを通して「一と全の両立」を目指すことになる。

そのため「一と全が両立」する物語には、それを作る上で問題が一つある。

 

問題とはつまり、物語の楽しさは「ゲームが魅力的かどうか」で決まるのであって、「一と全の両立」はあまり関係ないということだ。楽しさを決めるのは物語中のゲームの方なのだ(「一と全の両立」は納得感に影響するが)。

例えばドラゴンボールなら、悟空や仲間が敵と戦うところが楽しく、敵に勝てるかどうかはとても気になる。しかし、世界を救うことになるかどうかはあまり気にしてない。時をかける少女でも、真琴がタイムリープすることで、良いことがあったり悪いことが引き起こされたり、いろんなドキドキすることが起こる。見ている方はそこが気になって観てしまうのであって、最終的に世界がどうなるかは(ここでは真琴を含む周囲の人間がどうなるか)を初めから気にしているわけではない。

先ほどのイカサマ博打に勝つ話でも、「主人公がヤクザのイカサマを見やぶって勝つ」ところにワクワクして読んでいるだけだ。

つまり、どちらかというと物語のワクワク感を決めるのは「ゲームの面白さ」(と「一の成功」)なのだ。

 

これが物語におけるゲーム作りの問題だ。だから、読者が「気になってしょうがない」とか「楽しい」とか「真似したくなる」とかそういうゲームを用意することが物語には必要だ。

 

さらに言えば、物語ではその「ゲーム中の技」が一番の主役とも言える。

ドラゴンボールの「気を使った技」しかり、時をかける少女タイムリープしかり、その技が問題を起こすか、良いことを起こすかは紙一重であるが、物語の読み手は、その技の一つ一つに「どうなるのだろう」とワクワクするのだ。

なお、物語によっては、一つのゲームの中で、同じ技を使う者が「問題を起こす側」と「問題を解決する側」に振り分けることもあれば、一人に同時にやらせる場合もある。たとえばドラゴンボールでは同じような力を使いながらも、悟空たちは「問題を解決する側」であり、フリーザなどの敵は「問題を起こす側」だ。しかし時をかける少女では、真琴はタイムリープで「問題を起こしも解決も」する。だが重要なのは、どちらも同じ技を使うということだ。それが物語の中のゲームである以上、ゲームのプレイヤーは同じ技を使わなければいけないのだ。

例えば先ほどの博打打ちの話では、イカサマで失った金を、イカサマで取り戻すのだ。

なお、どうこの「ゲーム中の技」を魅力的にするかについては、記事を分けて別に書いたため、詳しくはそちらを見てほしい。

 

また、物語の中でのゲーム作りには、もう一つ問題がある。どのようなゲームを作るかというアイディアの問題ではなく、それに伴う信念の問題だ。

その問題とは、「一の成功」と「全の成功」が両立する「ゲーム」を信じられるか、ということだ。

「一と全が両立するゲーム」を作って、それが本当にそうだと信じられるか。そこが問題だ。

 

例えば、主人公の成功がすぐに世界の成功(世界の調和でも良い)につながるような、そういうゲームを考えてみよう。エヴァンゲリオンがそういうゲームだ。そこでは世界の命運が主人公であるシンジに握られていて、シンジが葛藤を乗り越えることが世界を救うことにつながる。問題は、物語を作る側がそのゲームをきちんと信じられるだろうか、ということだ。信じられないと、最後までそのゲームを貫けない。その場合物語も中途半端になってしまう。

 

物語についての話はここで一旦終わりにして、余談として、「一と全が両立するゲーム」について少し考えてみる。

そもそも、「一と全が両立するゲーム」がなぜ物語として納得できるのだろうか?

 

それは多分逆で、現実では「一」と「全」の調和が求められるものの、実際には多くの場合そうではないからだと思う。

現実では、一人の成功は、世界の成功とあまり繋がらない。物語のように「一」と「全」の命運が一緒くたになるなど絵空事だ。

例えばあなたが職業や結婚で成功したからと言って、それが周りの成功(幸福)に直結するだろうか?そうしない場合の方が多い。あなたの職業上の成功は、他人の儲けを掠め取っているだけだったりする。逆に、全体のためになっても、あなたの幸福にはならない場合もある。つまり「全」は成功だが「一」は失敗している場合も多い。

しかしその中で、人が「全」の中で生きている以上、「一」の成功と「全」の成功がつながると信じたいのだろう。

そのギャップを物語に託している。つまり、物語でその埋め合わせをしているのだ。

 

そしてさらに余談だが、その「一」と「全」の両立の設計は、物語だけでなく現実の政治や経済の設計にも関わっている。なぜなら政治や経済は、現実での「全」と「一」の両立を設計するものだからだ。

例えば過去の封建制などでは、「身分にしたがって各々がベストを尽くすことが全体の調和につながる」という信念が支配者によってもたらされていた。それはつまり「一」と「全」の両立の物語である。

また、江戸時代では商人の間には「三方良し」という心得があったらしい。それは「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」の三つの「良し」ということで、売り手と買い手がともに満足し、また社会貢献もできるのがよい商売ということだ。おそらく実際には「三方良し」になることは難しいだろう。だからこそ「三方良し」を目指すべき、ということだろう。

現代でも、自由主義経済という物語がある。ここでは「各々が利益を追求することが全体の活性化につながる」という「一」と「全」を両立するお話が語られている。

しかしいつの時代も、「一と全を両立する」物語は真実というよりむしろ理想だ。現代でも、両立するはずの「一の成功」と「全の成功」があまりに遠い。それで途方にくれている者も多いが、両立を目指して絶えずいろいろな仕組みが考えられては実験されているのが人の歴史なのだろう。

 

(ちなみに、博打打ちの話では後日談がある。

主人公はイカサマをするヤクザの博打打ちに勝り、少女の姉を解放する。しかし姉の解放と引き換えに、妹である少女は主人公のものになってしまった。しかしその後、主人公は姉に勝負を持ちかける。「もし主人公と姉が勝負して、姉が勝てば妹は解放する。逆に主人公が勝てば、妹ばかりか姉まで自分に身を捧げる」こと。姉はその勝負に乗る。そして主人公は、イカサマでわざと姉に負け、妹を解放する。つまり主人公はイカサマを通じてヤクザから勝ち、そしてイカサマを通じて少女の姉に負けることで少女たちを解放する)